アベノミクスに関する様々な論評

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目次

(01)「アベノミクス」私は考え直した

(02)物価上昇に収入追いつかず エンゲル係数“異常上昇”の仰天

(03)リフレ「浜田宏一」もデフレに白旗で、日銀「黒田総裁」も青息吐息

(04)トランプショックのどさくさ紛れ アベノミックス“白旗宣言

(05)アベノミクス終了

(06)日本は「為替操作国」 トランプついに円安誘導批判の波紋

(07)魚や野菜で驚愕の数値…これが2016年“超値上がり”リスト

(08)反・幸福論─成長の形而上学─

(09)失政のツケをまた…安倍政権が4月から“年金支給額カット”

(10)「黒田総裁」白旗で、「日本銀行」と「日本財政」の漂流先

(11)アベノミクスの矢がいつまでも的外れな「本当の理由」

(12)浜田宏一君は内閣参与を辞任せよ

(14)間違えたら腹を切れ 「経済学者」


文藝春秋新年特別号の浜田宏一内閣官房参与による「アベノミクス私は考え直した」の記事を発端に、アベノミクスの効果に関する「様々な議論」が行われています。
浜田参与は「経済政策にとって最も重要なのは、物価が上がることでも、財政が健全化することでもありません。雇用、生産、消費など国民の暮らしがもっと良くなることです。」
と文を結んでいますが、現実の野菜を中心とする日用品の値上げに対応する庶民の消費行動、及び、浜田参与の理論と真逆な年金カットなどを考えると、庶民の暮らしに安心感をもたらしたか、甚だ疑問です。生活者からすれば「デフレは何故悪いのか」、一向に分かりません。
学者や政治家の使うマクロな数字は、ミクロな日々の暮らしに本当に関係あるのでしょうか。浜田参与の結語「アベノミクスの将来は実に明るい」のでしょうか。
そこで、『「アベノミクス」私は考え直した」』から生じた「様々な論評」をここに連載します。これをベースにいろいろお考え下さいますようお願いいたします。

一寸したお笑いの種【アベノミクス】マイナス【ク】イコール【アベノミス】となる<お笑い番組“笑点”より>。成程ね!!!

1.「アベノミクス」私は考え直した(浜田宏一著、【文藝春秋新年特別号】)

浜田宏一(第二次安倍政権以来の内閣官房参与 東京大学 名誉教授、イェール大学 名誉教授、Econometric Society 終身フェロー)

──首相ブレーンが提案する新たな経済政策とは?──
「僕は、状況が変われば意見を変える。君はそうしない?」 かつて、マクロ経済学を確立したイギリスの経済学者、ジョン・メイナード・ケインズはこう言い残したことで知られています。私は二〇二一年十二月に発足した第二次安倍政権の内閣官房参与として、金融政策のアドバイザーを務め てきました。政策アドバイザーとは医師のような存在です。日本経済という患者”は、安倍政権が推し進めるアベノミクスという処方せん”により、停滞した二十年という病気”から一応回復することができました。安倍首相が金融政策の効果をよく理解してデフレに立ち向かい、日本経済が生き返ったことは日本国民が一番よく知っていることで しょう。実際、当初のアベノミクスは目覚ましい成果を上げました。私はその成果を百%認めています。
しかし今、日本経済は世界各国で起こる波乱要因に翻弄されています。特に過去一年あまり、予想外の出来事によって、アベノミクスはやや手詰まり感を見せています。 私が日本経済新聞のインタビューで考えを変える発言をしたことが話題になっているようです。メディアは一般的に自分たちが信じることを学者や評論家に言わせる傾向があります。しかし、今回の日経新聞のインタビューはそうではありません。私が「自分の考える枠組みに変化がある時は、正直にそれを伝えたい」と思ったことは事実です。
今は、従来の金融政策に新たな政策を加えることで、日本経済回復への道筋がより強固となると考えるようになりました。
<十一月十五日付の日本経済新聞が掲載した浜田宏一イェール大学名誉教授(80)のインタビュー記事が波紋を呼んでいる。〈私がかつて『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象だ』と主張していたのは事実で、学者として以前言っていたことと考えが変わったことは認めなければならない)アベノミクスの理論的支柱である浜田氏の突然の“転向”を、多くの関係者は驚きをもって受け止めた。従来の考えを変えた経緯とは何なのか。
金融政策という薬
二〇十三年四月、日本銀行の黒田東彦総裁は前年比二%というインフレ目標を掲げ、量的・質的金融緩和 (QQE)を打ち出しました。アベノミクスの「第一の矢」です。 QQEは当初、抜群の効果を発揮しました。民主党政権時代八千円台 だった日経平均株価はグングン伸びて、十五年七月には十五年ぶりに二万五百八十五円に到達しました。 効果は実体経済にも波及し、雇用者は第二次安倍政権発足後三年間で約百五十万人増。東京ドーム三十個 を埋め尽くす人々が新たな職を得たのです。また、一五年四〜六月期の企業収益は過去最高を更新。そし て、一六年度の政府の税収は約五十八兆円と、バブル期の一九九一年度(約六十兆円)以来の高水準になる見通しです。ここで重要なのは、物価が上がることではなく、雇用や生産、消費が回復したことです。一部の経済学者は「物価目標」を重視しますが、私は物価目標それ自体は重要でなく、雇用等を伸ばす手段に過ぎないと考えているからです。
マクロ経済政策には金融政策と財政政策があります。アベノミクス以前、多くのエコノミストや経済学者は財政政策を重視し、金融政策の役割を無視していました。その中で、当時学習院大学教授だった岩田規久男氏(日本銀行副総裁)は、ほとんど孤軍奮闘で金融政策の必要性と効果を説いていました。ァベノミクスは金融緩和を「第一の矢」に据えましたが、その波及経路は「マネタリズム」によって説明できます。シカゴ大学教授のミルトン・フリードマンによる(物価を左右するのは、もっぱら貨幣供給量である)という理論で、つまり、市場の通貨供給量を増やせばインフレを起こすことが出来る、という考え方です。
岩田副総裁がかねてから提唱していた「人々の期待に働きかける金融政策」もマネタリズムに分類できま す。彼は「インフレ目標を設定し、 通貨供給量を増やせば、人々の(イ ンフレへの)期待値が上がり、自然 とインフレになる」と説明しています。
そして私も、シカゴ学派のマネタリズムの国際版である「マンデル・ フレミングモデル」という理論を基本にしてきました。「デフレはもっぱら貨幣的現象であり、金融政策によって影響できる」と説明してきてきましたし、アベノミクス発足当初は、金融政策という“薬”だけで日本経済は立ち直ると思っていました。

衝撃を受けた論文
ところが、昨年末から「QQEは頭打ちになっているのではないか」 と思える事態が次々と起こり始めました。おそらく為替投機のせいでしょうが、外為市場の価格形成に不可解な動きが現れ、その結果、QQE の効果に翳りが出てきたのです。また、一四年の消費増税の消費抑制効果によるQQEの効果が出ていない期間は、予想を超える長さで続いています。 QQEとは、日銀が市場を通じて国債を買い、市場に出回った通貨が購買力を刺激する政策です。いわば、貨幣という金利がないモノ”と、国債という金利があるモノ”を交換しているわけです。ところが、金利はゼロに近い水準まで下がり、国債と貨幣で金利差がほぼ無くなってしまった。リンゴとミカンを交換していたはずなのに、気付いたらリンゴとリンゴを交換していた、 というわけです。だからQQEの効果が弱まっている。これはケインズ経済学で「流動性の罠」と呼ばれる現象です。金利がゼロ近くまで下落すると投機的需要が無限に大きくなり、金融緩和の効果が無くなる、というわけです。 さらに、金融政策の効果を緩める現象が二つ起こりました。 一つ目が、外為市場でおこった異変です。経済学の原則では、(日本が)低金利の時は、円安になるとされています。円が売られるので、円の価値が下がるからです。 ところが、十一月八日(現地時間)にドナルド・トランプ氏が米大統領選挙で当選するまでの一年間はQQEの結果、日本の金利が下がっても円安にならなくなっていたのです。二つ目が、日銀が一六年一月に導入したマイナス金利政策の効果が出ていないことです。 マイナス金利政策とは、日銀の当座預金の一部にマイナス〇・一%の金利を課すというもの。ヨーロッパでは、欧州中央銀行(ECB)など四つの中央銀行がマイナス金利政策を導入しています。意図的に金利を押し下げることで、景気を活性化さ せ、二%のインフレ目標を目指そうというわけです。 金融機関にとっては課税的措置?とも言えます。日銀の当座預金に預け入れるだけで手数料を取られるので、金融機関の収益は圧迫されます。そこで多くの銀行はこの政策に対して抗議の声をあげています。
マイナス金利の範囲を広げたり、利子率をもっとマイナスに深堀すれば、銀行に対する被害が拡大するので、銀行が神経質になる理由も分か ります。ただ、銀行は、現在も過去の預け金に対してプラス〇・一%の利子を受け取っているので、私には、彼らの苦情は大げさで、被保護企業が「補助金が少なくなった」と嘆いている様子に似ているようにも見えます。
一方で、国民生活には良い影響があります。住宅ローンの金利は下がりますし、消費者金融の金利を押し下げる作用もあるからです。 マイナス金利政策で、確かに金利は下がりました。しかし、理論上あるはずの円安効果”は一切ありませんでした。 そんな矢先の一六年八月。世界の中央銀行のお祭”ともいえる「ジ ャクソンホール会議」で、プリンストン大学教授のクリストファー・シムズ氏による基礎報告がありました。シムズ氏は計量経済学の専門家で、一一年にはマクロ経済における因果関係の統計的な研究に関する功績により、ノーベル経済学賞を受賞しています。
私はシムズ氏の論文を読み、衝撃を受けました。「金融政策はなぜ効かないのか」という問いに、明快な答えを与えていたからです。シムズ氏は「金融政策が効かない原因は『財政』にある」というのです。
中央銀行が量的緩和で貨幣量を増やしても、同時に政府が財政赤字を減らそうとして増税を行えば、インフレにはならず、デフレになってしまう。シムズ氏の分析は(貨幣価値を究極的に保証しているのは国家の徴税権力である)とする物価水準の財政理論(FTPL)の応用でした。そして、現在の日本の状況も例に挙げて、なぜ金融政策だけではうまくいかないかんしかをずばりと言い当てていました。 シムズ氏は、金融緩和が有効であることを認めたうえで「より強い効果を出すためには、減税など財政拡大と組み合わせよ」と提唱しています。従来の経済学では、財政規律が緩むと、過度なインフレを招くうえに財政赤字はかさみ、経済にダメー ジを与えることが強調されていました。しかし、シムズ氏は意図的に「赤字があっても、財政を拡大するべき(時もある)」と主張します。
これは斬新なアイデアでした。 シムズ氏の論文の内容にハッとさせられたのには理由があります。 トランプ氏当選以前の円高傾向について、私は外国の実務家仲間と議論を交わしていました。「海外のヘッジファンドの投機が円を高含みにしているのではないか」こう主張する私に対し、ある友人がこう指摘してきたのです。
「日本の財政はこのままで良いのか? 消費増税と、将来のさらなる増税への見通しが、為替投機以上に日本経済の足を引っ張っていないだろうか」
その時は聞き流していましたが、シムズ氏の論文を読み、両者が繋がったわけです。これまで私は金融政策については様々な意見を述べてきましたが、財政政策についての意見は「消費増税反対」などに限られていました。しかし、シムズ氏の論文を読み、QQEが効かず、インフレが起こらない理由は、「財政とセットで行っていないからだ」と分かったのです。アべノミクスの金融緩和がうまくいっていた一方で、消費増税は景気を挫折させる方向に働きました。
つまり、私は「(人々の)資源配分を改善するような政府支出や減税などによる財政政策を、金融緩和の手助けに使ったほうが良い」という点で考えを変えたわけです。ですが、金融政策を止めてしまえというわけではありません。金融緩和を止めてしまえば旧日銀体制に戻 り、「停滞の二十年」に戻るわけですからとんでもないことです。 秋、紅葉の綺麗なプリンストンに、かつてイェール大学で同僚だったシムズ氏に会いに行き、「日本のマイナス金利政策は、失敗と思うか?」と訊ねました。やや意外なことに、シムズ氏はこう話しました。 「マイナス金利はそれ自体が悪い政策では決してない。しかし、この政策で傷ついた主体を、政府は財政措置等で助けるべきだ。そうすれば、マイナス金利は良い政策ともなるだろう」金融緩和と財政政策をセットで考えれば次のような視野が持てます。
例えば、金融政策の効果を阻害しているのは巨額の企業の内部留保です。一五年度の内部留保は約三百七十八兆円。前年度比約二十三兆円も増えています。貯めた利益を従業員の賃金に還元せず、株主への配当も増やさない、投資にも回さないといった具合です。動かさないお金は何も生み出しません。しかしこれは金融政策では是正できない領域です。 そこで、留保した利益を投資に回した企業を減税する、あるいは内部留保そのものに課税するなど、財政政策で工夫すれば良いわけです。また、「金融と財政の合体」は、 次のような政策に落とし込めば良いでしょう。
インフレ目標と消費増税は二つ で一つ”と考えて、連動させるのです。例えば、食料とエネルギーを除くコアコアCPI(消費者物価指数)が目標の二%を達成できた場合に限り、消費税を年々一%ずつ段階的にあげる。逆に、目標を達成できない場合、消費増税は消費増税はずっと凍結し続ける、といった具合です。インフレ目標は金融政策だけで目指して、増税だけあらかじめ時期を決めてしまうのでは金融と財政の足並みは揃いません。

仁徳天皇と「民のかまど」
しかし一方で、財政赤字を拡大し続ければ国家財政が破綻すると心配をする人がいます。 財務省による財政の無駄遣いをチェックする役割は重要です。国民に景気悪化の迷惑がかからない限り、消費税引き上げは政府債務を減らし、無駄な利子負担を取り除き、経済厚生(経済的観点から見た人々の幸福)を改善し得るからです。 しかし、実際に生活をしているのは国民であり、政府や財務省ではありません。一時的に政府に赤字が出ても、国民が消費を増やし、経済が潤えばいお金は税収として戻ってくるのです。前回の消費税に三%という大幅な引き上げは、国民に大きな 負担を与え、消費の足を長々と引っ張っており、予定されている次回の引き上げも、旅人の行き先に見える黒雲のように、国民に不安を与えて消費を控えさせています。
次のような逸話があります。
第十六代の仁徳天皇(二九〇年〜三九九年)は皇居から見下ろす家々のかまどから炊事の煙が立っていないので、国民が貧しい暮らしをしているのに気づきました。そこで三年間、年貢を免除。宮殿が荒れ果てても民の生活を優先したのです。三年後、家々のかまどの煙が立つようになり、天皇は喜ばれたといいます。 この逸話はシムズ氏の主張そのものです。
友人の多い財務省を批判するのは私が意図するところではありません。ただ、なぜ仁徳天皇の話をするかというと、経済学では国民の生活を第一に考えるので、宮殿”だけを見るような財務省の考えは一面的だということを読者に理解してほしいからです。
また、国全体のバランスシートを見れば、政府の負債である公債と日銀の負債である貨幣は、民間部門にとっての資産となります。イギリスの経済学者、デヴィッド・リカードが唱えた「リカードの等価定理」では、(公債は増税という国民の将来の負債だから相殺される)、つまり民間の資産とは言えない、とされますが、一方でリカード自身が書いているように、実際はそこまで利口な国民はいません。今、お金を持っていれば、「私は富んでいる」と錯覚するのが現実です。 むしろ国民がデフレで困っている状況下では、その錯覚を利用して、 公債というニセ金”で皆を富んでいる気持ちにして消費を刺激した方が経済は活性化するのです。また、 国の借金であれば消費者金融などとは違って返済期限もなく、将来世代 に繰り延べすることもできます。日本の政情が安定していて、次期の納税者が存在する限り、国の財政の長所は、公債を発行して税の繰り延べが可能なことなのです。
<──十一月八日、アメリカの次期大統領が誕生した。当初は泡沫候補 とされていたドナルド・トランプ氏(70)が世論調査の結果を覆し、ヒラリー・クリントン氏 (69)を破ったのだ。日本経済にとってもトランプ大統領の存在は大きい。アメリカ在住の浜田氏はトランプ大統領の経済政策をどうているのか。また、日本はどの ように付き合っていくべきなのだ
ろうか。──>

毅然とした通貨外交を
トランプ氏の当選はアメリカの知識人にとって大きなショックでした。トランプ氏はアメリカの「国家の品格」を捨て去るような言行を利用して当選を勝ち取りました。その過程で多くの国民を怒らせ、不安にさせ、心配もさせました。アメリカが分裂国家”にならんとする恐れはあります。他方、アメリカ人は、急激な変化や改革にも対応できる。例えば、一九二〇年代には 「禁酒法」を採用し、うまくいかないとそれを捨て去る勇気のある国民です。確定事実となったトランプ大 統領への適応も早い気もします。 オバマ政権が誕生した〇九年一月は、リーマンショックの直後で、アメリカ経済はほぼ壊滅していました。オバマ大統領が真面目に難題に取り組み、経済を立て直したのは実に大きな功績です。
ですが、ショックの後でもあり、 市場に対しては規制派でした。一〇 年に成立したドッド=フランク法はその象徴で、銀行やノンバンクの業務内容を大幅に制限し、これが市場機能をゆがめる方向に働きました。トランプ氏は同法を撤廃すると公言してきました。当選直後に米株が急伸したのは、それが一因と言えるでしょう。
ただ、トランプ氏の経済政策には未知数の部分が多い。選挙期間中、ジャネット・イエレンFRB(連邦準備制度理事会)議長の低金利政策を「恥を知れ」と批判したかと思えば、日本政府を「円安誘導している」と批判してドル安に誘導すると公言しています。ドル安にするには、低金利が必要なので、言っていることが矛盾しています。
ただ、「必要とあらば財政出動はどんどん行う」と明言していますので、同時に金融緩和を進めれば大成功する可能性もあります。その全容 が分かるのはまだ先のことですが。 新生アメリカと向き合う日本には多くの難題が待ち受けています。 現在は円安傾向が続いていますが、円高に振れる時もあり得る。もし一日に五円も六円も円高に振れる時には財務省は─アメリカに気を遣いすぎないで─すぐに為替介入をすべきでしょう。通商強硬派のトランプ政権が円安に対して「保護貿易を強めるぞ」という威嚇をしてきても、毅然として対応する通貨外交”の姿勢が必要です。 トランプ氏の当選直後、安倍首相がすぐに面会して議論の糸口を掴もうとしたことは、今後の日本にとって、大きな布石となるはずです。 経済政策にとって最も重要なのは、物価が上がることでも、財政が健全化することでもありません。雇用、生産、消費など国民の暮らしがもっと良くなることです。ここまでうまく働いた金融政策の手綱を緩めることなく、減税も含めた財政政策で刺激を加えれば、アベノミクスの将来は実に明るいのです。

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2.物価上昇に収入追いつかず エンゲル係数“異常上昇”の仰天【日刊ゲンダイ 2017年2月2日】

<直近の報道である。これでも、「ここまでうまく働いた金融政策の手綱を緩めることなく、減税も含めた財政政策で刺激を加えれば、アベノミクスの将来は実に明るい。のでしょうか???>
度肝を抜かれる統計が出た。2016年のエンゲル係数が、29年ぶりの高水準だったというのだ。
 2016年12月31日、総務省は12月の家計調査を発表。消費支出(2人以上の世帯)は31万8488円と実質0.3%減で、10カ月連続のマイナスとなった。
「消費支出そのものより、同時に公表されたエンゲル係数に驚きました。12月は27.5%に達し、16年平均では25.8%だといいます。1987年以来の水準です」(市場関係者)
 1987年といえば、国鉄がJRに変わった年だ。中国では、数百人の学生が天安門広場でデモを行った。大韓航空機の爆破事故が起きたのも、この年だった。サラリーマンの平均年収は385万円(2015年は約420万円)。
「生活水準は、その頃に逆戻りしたということです。野菜など生鮮食品の高騰と、輸入物価の上昇で、エンゲル係数は高まったのだと思います」(第一生命経済研究所首席エコノミストの熊野英生氏)

エンゲル係数は14年以降、急速に高まった。それまでは23%台で推移してきたが、15年に25.0%を超えた。
「脱デフレの後遺症が、エンゲル係数の上昇に表れています。政府・日銀の円安誘導策によって、14年から円安傾向が顕著になり、輸入品を中心に値上がりが続きました。一方、サラリーマンの収入はそれほど増加しなかった。物価上昇に収入が追いついていないのが現状です」(前出の市場関係者)
 アベノミクスは庶民生活を豊かになどしていない。それを証明するようなエンゲル係数の上昇だ。

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(3)リフレ「浜田宏一」もデフレに白旗で、日銀「黒田総裁」も青息吐息【週刊新潮新年特大号】

端的に言って、ハシゴを外された格好である。2013年の就任以来、おびただしいマネーを市場に流してきた黒田東彦・日銀総裁。 その「量的緩和」政策の理論的支柱が、続くデフレに白旗を上げ、持論を撒回したのだ。これに黒田氏、白目を剥いて、青息吐息か。

(「アベノミクス」私は考え直した)
12月9日発売の『文藝春秋』誌に論考が載った。 筆者は、米イエール大学名誉教授で内閣官房参与の浜田宏一氏。言わずと知れた「アベノミクス」、中でもその「一の矢」である「大胆な金融政策」を首相に進言したプレーンである。 従来、浜田氏は大幅な金融緩和を行えば、円安が進み、物価は上昇、デフレから脱却できるという「リフレ理論」を唱え続けてきた。 しかし、先の論考では、“昨年末から量的、質的緩和政策は頭打ちになっているのではないかと思える” と、行き詰まりを明かし、自分の考える枠組みに変化が”“金融政策だけではうまくいかない。財政とセットで行っていかないと“と、 その限界をはっきり認めてしまったのである。 これに驚いているのが黒田総裁か。なぜなら、日銀はこれまでリフレ理論に従 って、市中から国債や投信を異常に買い集めてきた。 しかし、当の親分がその方法に留保を付けたのだから。
ノーベル賞学者も…
就任当初こそ、円安、株高を誘引し、評価が高かった「黒田バズーカ」。しか し、この2年は失敗続きだ。
経済部のデスクは言う。 「2年間で2%上昇を謳っていた物価は伸び悩み、追加緩和、マイナス金利を導入しても流れは変わりませ ん。それを受け、9月の金融政策決定会合では、量だけでなく、金利も操作の対象にする『方針転換』を表明。11月の会合に至っては、インフレ目標の達成時期を『19年3月まで』つまり、『18年4月まで』の自らの 任期の後に先送りした。すなわち『敗北宣言』を出したワケです」 それに続いての、バックボーン・浜田氏の“変節”だ。「リフレ派」の信用が地に墜ちたのは、想像に難くあるまい。エコノミストの中原圭介氏は言う。
「実は、浜田さんが影響を受けたノーベル経済学賞学者・クルーグマンも15年、 “日本の量的緩和政策は失敗するかもしれない”とコラムで述べています。つまり、日米のご本尊2人が共にリフレの失敗を認めている。今後の黒田さんは、量的緩和の規模を縮小する方向で、更なる政策転換に努めていかざるをえなくなると思います」
元日銀金融研究所長で、千葉商科大学大学院の三宅 純一名誉アドバイザーも言う。
「黒田さんはもともと腰の据わったリフレ派ではない。 浜田さんや、副総裁の岩田規久男さん、審議委員の原田泰さんといったラディカルなリフレ派に引っ張られてきたのです。その彼らが前言撤回ですから、複雑な思いでしょう。今後は、日銀企画局などの事務方が志向する、金利操作を中心とした政策に重点を置いていくと思います」
となれば、総裁にとって残り任期の1年余りは、自らの誤りを正す日々になる。
経済学者の“マネーゲーム”に使われた代償は、途方もなく高く付きそうなのだ。

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(4)トランプショックのどさくさ紛れ アベノミックス“白旗宣言

「TPP永久離脱」に「日本車攻撃」。連日のトランプ・ショックにすっかりかき消されてしまったが、先週25日に内閣府が経済財政諮問会議に示した試算は衝撃的だった。国際公約している2020年度の基礎的財政収支(プライマリーバランス=PB)の黒字化が絶望的であることが分かったのだ。
 試算によれば、20年度の国と地方を合わせたPBは8.3兆円の赤字。昨年7月の前回の試算より赤字幅は2.8兆円膨らんだ。目も当てられないのは、この数字が「実質2%、名目3%」というありえない高い成長率を前提としていることだ。ゲタを履かせても赤字予想なのだから、現状の0%成長では「20年度の黒字化目標」は到底ムリ。経済成長に伴う税収増で黒字化できるという理屈は崩れたのである。
 赤字拡大の理由として、円高で企業業績が悪化し、税収が想定より下振れしたことが挙げられているが、そんなの言い訳だ。
第2次安倍政権発足後の最初の1、2年こそ、金融緩和による急激な円安で輸出企業はウハウハだったが、円高になった途端、元通り。日本経済は瞬間的に為替差益で潤っていただけで、産業競争力が高まったわけじゃないからだ。
 将来不安を背景に消費を減らす動きが加速、所得税収や消費税収が伸び悩むこともPBが赤字の原因だと説明しているから唖然である。 アベノミクスで異次元緩和し、ジャブジャブマネーと円安で大企業が潤う。インフレ期待とトリクルダウンで消費者がカネを使って、デフレ脱却、経済再生――。今回の内閣府の試算は、このシナリオが完全に破綻したことを意味する。いわばアベノミクスの「白旗宣言」なのだ。
■アベクロはセットで辞任すべし
 金融政策に頼り切った結果がこれだ。日銀は禁断のマイナス金利にまで手を付けたのに、1年経ってもデフレ脱却への効果は全く見えない。すべてがペテンだったのだが、今さら緩和をやめられないから国債暴落の危険性だけが膨らみ続ける。無間地獄だ。
経済アナリストの菊池英博氏がこう言う。
「大企業優遇のアベノミクスは新自由主義の典型です。世界では新自由主義の先頭を走っていた英米で、キャメロンとオバマという2人のトップが退陣した。今度は安倍首相の番です。黒田日銀総裁とセットで辞めてもらわなければなりません。安倍政権の4年間で、経済成長の要である実質国民所得は5.1%減、1人当たりの金額にして19万円減ってしまいました。消費増税3%分を差し引いても、実質所得はマイナス。アベノミクスによって国民から奪われた所得が大企業に行ったのです。ところが大企業は法人税減税の恩恵を受けても、投資せず、内部留保に回すばかり。さらに非正規社員の激増で日本経済は底割れしてしまった。こんな状況で金融頼みの政策を続けてもどうにもなりません」
 怪しいのは、内閣府が試算を発表したタイミングである。トランプ騒動の陰に隠れてどさくさ紛れがミエミエ。大新聞も事実を垂れ流すだけだ。安倍首相にしろ黒田日銀総裁にしろ、なぜデタラメ経済失政の責任追及がなされないのか。アベ様に盾突けない日本の大新聞も情けない。
ノーベル賞学者の理論に舵を切るのか
 さすがに金融政策の限界は明らかで、ここへきて官邸内には、財政出動路線のトランプ政権誕生に便乗して、財政政策にこっそり舵を切ろうという空気が出ている。
 昨年末辺りから“変節”したリフレ派の安倍ブレーン、浜田宏一・米エール大名誉教授が20日、あらためてロイター通信に「金融緩和の効果を高めるためには財政政策の拡大が不可欠。消費税率引き上げの再延期と法人税減税が必要」などと語っているのだ。
 浜田教授が最近、「目からウロコ」と心酔しているのが「シムズ理論」。ノーベル賞学者のクリストファー・シムズ米プリンストン大教授が唱える「財政赤字により物価水準を押し上げる」という考え方だ。シムズ教授は29日の日経新聞のインタビューでも「金融政策ではデフレ脱却はできない」と断言、そのうえでこう言っている。
「物価引き上げに必要なのは、日本政府が政府債務の一部を、増税ではなくインフレで帳消しにすると宣言することだ」
例えば政府の借金が100兆円あるとして、一方で将来は50兆円分の返済原資しか得られそうにないとする。その場合、100兆円の債務は実質50兆円分の価値しかないことになり、インフレが発生するという。政府が将来のインフレを宣言するのだ。借金を払わない国だと不安に煽られた国民のインフレ期待も起こるというのだが、これって、現状の日本の金融政策ともPB黒字化目標とも相いれない考え方だ。
 経済評論家の斎藤満氏がこう言う。
「ジンバブエのようなアフリカの無責任国家ならまだしも、日本では予算制度上、この理論は使えません。予算が100兆円として税収が50兆円しかなければ、残りの50兆円分は『知りません』と宣言してしまえ、という話ですが、日本では歳入と歳出で均衡が取れていなければ予算は通りません。日銀がこれまでやってきたマネタリーベースを増やしてインフレにするのとは百八十度違う。現状の政策ではうまくいかないからルールを無視して何でもアリなのか。恐ろしい話です」
シムズ教授は2月に来日予定で、政府関係者が会うという噂もある。“奇策”に頼ろうとするのは、現状の政策が失敗していることの裏返しだ。
■消費増税では国は浮上しない
 いずれにしても、大企業富裕層優遇の安倍政権は、これまで同様、取れるところからカネをむしり取るのだろう。まずは社会保障費の削減だ。4月から年金支給額のカットが決まっている。
 そして、社会的弱者が金食い虫と糾弾され、医療費が大幅カットされることになる。すでに70〜74歳の医療費負担が原則2割に引き上げられた。厚労省は、75歳以上の医療費負担増や要介護1、2の軽度者へのサービス縮小も検討している。まさに「老人は死ね」と言わんばかりの政策が目白押しだ。
 このままでは経済成長は期待できない。だが、シムズ教授も言うように、今のデフレ下でおいそれと増税はできないだろう。
「これまでの例を見れば明らかで、どんなに経済環境が良くても消費増税をすれば確実にむしばまれる。節税意識で消費を抑えることになるし、弱者は負担増で生活が苦しくなる。景気悪化のリスクが高すぎて、軽々には増税できないでしょう。しかし、過激なインフレに頼ったり、医療費や社会保障費を削ったりしなくても、財政を健全化する方法はあるはずです。例えば、オフショアビジネスで税金を払っていない富裕層にきちんと課税する。内部留保を積み上げている大企業にカネを使わせる。内部留保に直接税金をかけるのでは企業も抵抗するでしょうから、働き方改革の一環として、企業が社員の健康維持に投資するのに使ってもらうなどの方法もあると思います」(斎藤満氏=前出)
 ハッキリしているのは、これ以上、無能首相とボンクラ総裁に任せていてはダメだということ。日米首脳会談の行方は気になるが、足元で起きている日本経済の末期症状も注視する必要がある。

【日刊ゲンダイ2017年1月30日】

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(5)アベノミクス終了

浜田教授の懺悔と黒田総裁の暴走

11月15日付の日経新聞朝刊を読んだ金融関係者は驚愕した。アベノミクスの理論的支柱である浜田宏一・エール大名誉教授(80)が金融緩和政策の限界を認めたのだ。
〈私がかつて『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象だ』と主張していたのは事実で、学者として以前言っていたことと考えが変わったことは認めなければならない〉
 金利がゼロに近くなれば量的緩和は効かなくなり、マイナス金利を深掘りすると金融機関のバランスシートを損ねるという。
「アベノミクスは、第一の矢である金融緩和が肝。第二の矢である財政出動はこれまでもやってきたし、第三の矢である成長戦略は成果が出ていない。その第一の矢が折れつつあることを提唱者が認めたのです」(経済部記者)
 ある経済学者は「80歳になってもなお学び続け、誤りを認められる浜田先生は学者として誠実な人」と評価するが、壮大な実験の被験者となってきた国民は浮かばれない。
 問題は、“実行犯”である日銀がいまなお失敗を認めず、“逃走”を続けていることだ。
 2013年、黒田東彦氏が日銀総裁に就任し「2年程度で2%の物価上昇目標」を掲げたが、いまだ達成できず、時期を2018年度に先送りした。リフレ派の代表格として副総裁に送り込まれた岩田規久男氏は、「2年2%」という目標が達成できない場合は辞職すると公言していたが、その気配はない。
 そして、今や黒田総裁は「神になった」(金融関係者)と囁かれている。
 11月17日の参院財政金融委員会。黒田氏は、利ざや縮小で金融機関の基礎的な収益力が低下する中、課題克服には「(経営統合も)一つの選択肢としてあり得る」と指摘したのだ。これを聞いた地銀幹部が怒る。
「マイナス金利政策で収益力が急減しているのに、経営統合も選択肢とはマッチポンプそのもの。金利だけでなく、金融機関の経営戦略にまで口出しするとは、日銀は全知全能の神になったのか」
 フランケンシュタイン博士の生んだ怪物は、創造主の意図を超え暴走を始めた。浜田教授の生んだ「異次元緩和」、そして黒田総裁も、なお暴走を続けている。

【2016.11.25号 週刊文春】

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(6)日本は「為替操作国」 トランプついに円安誘導批判の波紋

ついにトランプ米大統領が日本を「為替操作国」だと名指し批判した。大統領選中には言及したことがあったが、正式就任後は初めて。発言を受け、1ドル=113円前半で取引されていた円相場は対ドルで急伸、一時、112円08銭をつけ、2カ月ぶりの高値となった。この円高を受け、1日の東京株式市場も続落した。
「他国は通貨安誘導に依存している。中国がやっていることを見てみろ。日本が何年もやってきたことを見てみろ。彼らは金融市場を利用している」
「米国は通貨切り下げに対して何もせず、バカ丸出しで座っている」
 トランプはこう言って、いつもの激しい口調で日中の為替政策を批判した。
 発言があったのは31日、トランプがホワイトハウスで行った医薬品大手トップらとの会談の場。「他国が通貨切り下げをして、米国企業が我々の国で薬を作れなくなっている」と話す中で飛び出した。
トランプ発言は、アベノミクスで安倍首相と黒田日銀総裁が二人三脚で進めてきた「異次元緩和」を批判したものとみられる。折しも31日、金融政策決定会合後の記者会見で黒田は「通貨安誘導」という指摘に反論していたが、トランプの「口先介入」により、日本は苦しい立場に置かれる可能性が出てきた。
 トランプ政権は巨額の貿易赤字の削減に向け、日本と中国を「為替操作国」に指定し、対抗措置を講じることも視野に入れているもようだ。今月10日の日米首脳会談でも、安倍は直接トランプから、「米国第一のために、円安誘導を是正しろ」と言われかねない。
 この発言を受け、外国為替市場の円が急伸。一時、約2カ月ぶりとなる1ドル=112円台前半まで円高・ドル安が進んだ。午前11時15分現在、前日終値比45銭円高・ドル安の113円07〜08銭で取引されている。日経平均も続落し、一時、前日比125円安まで下げたが、その後、前日の大幅安の反動で割安な銘柄に買いが入り、プラスに転じる局面もあった。午前の終値は同60銭安の1万9040円74銭。

【日刊ゲンダイ2017年2月1日】

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(7)魚や野菜で驚愕の数値…これが2016年“超値上がり”リスト

 エンゲル係数が上昇している。2001年以降、エンゲル係数は23%台で推移していたが、14年に24.0%に上昇し、15年は25.0%まで高まった。先週、総務省が昨年12月のエンゲル係数(27.5%)を公表し、16年は年間では25.8%(2人以上の世帯)に達したとみられている。
「生鮮食品の値上がりが影響しているのでしょう。政府や日銀が物価上昇の目標とするコアCPIは生鮮食品を含んでいません。そのため、物価は上がっていないように思われがちなのです」(第一生命経済研究所首席エコノミストの熊野英生氏)
 実際、野菜や魚の値上がりは凄まじく、家計を圧迫している。16年(年間)のコアCPIは99.7と前年より0.3%下落したが、生鮮食品を含む総合指数は100.1と上昇だった。
■4年間で「さんま」は35%も
しかも、食料に絞ると1.7%アップ。さらに品目ごとに細かく見ていくと、驚愕の数値が並ぶ。
 魚介類は「いか」が19.4%、「ししゃも」が11.8%と2ケタの上昇率だった(別表参照)。「さけ」は2.1%アップと、それほど値上がりしていない印象だが、ここ数年間で見ると、かなり値段がハネ上がっている。13、14、15、16年と4年連続で上昇し、12年との比較だと32%上昇だ。
 同じく「ほたて貝」は4年間で31.6%値上がりし、庶民の味「さんま」は35.1%も上昇している。
「一方、サラリーマンの平均年収は12年が408万円で、15年は420万円です。給与は3%ほどしか上がっていないのに、『さんま』や『ほたて貝』は30%も上がった。エンゲル係数は上昇して当然でしょう」(市場関係者)
 野菜も値上がりラッシュだ。16年は「ほうれんそう」12.0%、「はくさい」14.4%、「ねぎ」12.2%、「ブロッコリー」10.9%、「さといも」10.1%と1割を超す上昇率。「にんじん」は何と21.4%も値上がりした。
牛肉(輸入)は6年連続の上昇で、この間の値上がり率は44.6%。1000円で買えた「肩ロース」は1446円出さないと手に入らない計算だ。国産牛肉も4年連続アップで22%ハネ上がった。
 トランプ旋風が吹き荒れる米国のエンゲル係数は15.2%(11年=以下同)。ドイツ19.7%、カナダ20.9%、イギリス22.5%だ。
 日本の“貧しさ”が際立ってきた。

【日刊ゲンダイ2017年2月7日】

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(8)反・幸福論─成長の形而上学─

─経済成長は、それ自体では、良いことでも悪いことでもない。何が成長しており何が破壊されているかが問題なのである。

確かに、何が成長したかは、自画自尊気味に喧伝されるが、望ましいとされる成長の結果、何が破壊され、どんな社会的現象が生じたかは何も伝えれれていない。
平たく言えば、「失われた大家族制」「生活保護世帯の増加」「保育園問題」「孤独死」「危険運転致傷害の多発」「水俣病問題」「トキ、日本赤蛙等、絶滅危機種の多発」等々は経済成長の結果、破壊された『何か』が引き起こした問題ではなかろうか。

この論述は社会思想家の立場から、経済学、取り分け、計量経済学に対する論評で、大変ユニークな内容と思う。やゝ難解な文章とは感じたが、是非、吟味していただきたい。

経済成長とは「家の繁栄」
今日の経済は、成長の追求が困難であるだけではなく、成長追求は必ずしも望ましいことではない、というのが私の考えである。すると、ある人が、「そうはいっても、成長というのは、なにか生物的な本能のようなもので、人は常に成長そのものを求めるものではないのか」といったことがあった。「成長を求めることは生命の本質だ」というわけだ。逆にいえば、「もしも或長ができなくなれば、「それは生命体としての人類の衰弱であり、人はそのこtに恐怖感を抱くのではないか」ということにもなろう。これは案外と手ごわい反論である。 「成長」という観念には、どこか生物学的な発想がある。だからまた、経済成長には、何か、生物的な種の繁殖というイメージと重なるところがある。だがさしあたって、この問いに対しては次のように答えることができるだろう。第一に、人類の長い歴史のなかで、今日、われわれがいうような「経済成長」が生じたのは、せいぜいこの200年ほどの期間に過ぎない。それ以前のきわめて長い間、人類は「経済成長」など経験しなかった。ということは、「経済成長」とは、人間の生物的本能というよりも、近代社会が生み出した歴史的な現象というべきである。 第二に、もしも、「生命的・生物的現象」というのならば、生命は、誕生して成長し、やがて頂点に達した後に衰弱し、死に至たる。これこそが「生命的現象」ではないのか。だから、無限の成長の方が生物学的な発想に反するであろう。無限の成長という論理は、個体の生命的現象を超えた種や類といったより大きな社会集団についていえることであろう。確かに、日本には(そして世界の多くの国で)「家」の繁栄という観念が伝統的に存在した。一族の繁栄やさらには、「国」の繁栄、という観念も存在したがそれは、個体的な生命を超えたものなのである。それは個体の生命を超えて存続するところに意味がある。そして長い間、この「繁栄」は、多くの場合、「成長」を意味するというよりも、「安定」や「存続」を意味していた。
さてここで私が考えてみたいのは、後者の方である。ここには存外、大事なことが示唆されているのではないだろうか。 もしも、生物的事実に立てば、個人としての私は、わざわざ経済成長など求める必要はない。どうせ自分は死んでしまうのだから。では、それにもかかわらず、どうしてわれわれは「経済成長」を求めるのだろうか。
たいていの人は、自分たちの子供が、 自分よりよい生活をすることを望んでいる。国の経済成長を望むということは、 自分たちの子供の世代が、自分たちよりも、もっとよい生活をしていることを期待するということであろう。経済成長とは、それを望む子孫が増加するということだ。
だがそうだとするとどうなるか。人口減少社会とは、子供を持たない家族が増加する社会であり、家族を持たない人々が増加する社会である。70年代にはそれでも日本の家族の平均人数は3人を超えていた。つまり、平均的に見て、夫婦と子供が一人m佐多は二人である。しかし、90年代にはそれは3人を下回る。つまり、一人暮らし、もしくは子どもがゼロか一人ということになる。こうして、今日、われわれは人口減少社会に入った。「家」をもたない、もしくは、その継続性を期待しない若者たちが増加している。たとえば35歳−39歳の男性の未婚率は1995年の約23%から 2015年の約35%へと増加し、女性の場合、10%から約24%へと増加している。おおよそ男性3人に一人、女性4人に一人が未婚ということになる。ついでに50歳を基準にした「生涯未婚率」は、2015年で男性は約23%、女性は約14%である。
ある意味では子供がおらず家族をもたなければ、人生はきわめてシンプルなものだろう。家も大きな財産も所有須利必要はない。所得も資産もすべて使い切って死ねばよいのだ。(ただ、そこと自体がかなりの難問ではあるが)
ひとは、個体の生命的原理に従えば、ただ死ぬだけのことで、次世代に何も残す必要はない。だから人口減少社会の若者が経済成長に対して強い関心を持たなくなるのは当然のことであろう。生物学的比喩を使えば、生物的な繁殖力が低下した社会は、経済成長への関心も薄くなるのかもしれない。
逆にいえば、経済成長とは、暗黙裡に「家」という観念に支えられていることになる。自分の子供や子孫がよい生活をしてほしい。それを「家の繁栄」といった。「家」が繁栄するには一国の成長が不可欠であろう。こう考えれば、経済成長は望ましいものとなる。だから、「家」 が崩壊してくると、もはや経済成長を強く望む理由はどこにもなくなる。かくて人口減少社会が脱成長社会である、というのは、ただ労働人口が減少するというだけのことではない。次世代によりよい生活を残そうという、個体の生命を超えた強い意欲が減退するのである。今日、家族ももたずに子供に何かを残そうとも考えない若者が増えてきているということは、戦後日本がひとつの理想とした「個人主義」や「自己責任」が思いもよらない形で実現したということにもなろう。彼はいうだろう。「自分は家庭もほしくない。一人でいるのが一番楽だ。自分一人が生きるのに必要なものを稼ぐだけでいい。毎日早朝から会社にいって、一日、働かされて一生過ごすなんてまっぴらだ」と。
成長の量ではなく質
確かに、これでは強い労働音欲はでてくるはずもないだろう。イノベーション主義者が主張するような、新機軸を実現する野蛮な貪欲さも、リスクを引き受ける向こう見ずなベンチャー精神もでてこないであろう。「今の若者は内向きで覇気がない」などという必要もない。別に経済成長を否定するわけではないものの、そもそも成長することに関心がないのだ。
こういう気持ちはわからないわけではない。しかし、彼にこう問うてみょう。「君は、それなりに楽しい生活をして一生を終わりたいといっている。しかし、 旅行にいくにしても高速鉄道や飛行機や自動車という移動手段に頼らざるをえないだろうし、病気になれば、現在の医療技術の世話になり、一人で死ぬといっても病院や施設の世話にならなければしょうがないじゃないか。こうしたものは、 他人と共有しつつ、他人とともに作り出しているものだろう。しかも、君が楽しんでいるこの世界は、君の親やまたその親の世代の人たちが作り、残してきたものだ。君自身も仕事をして社会に対して ひとつの役割を果たし、その仕事の成果は後の世まで残るかもしれない。だとすれば、君自身の生や死は君一人のものか もしれないが、君を生かし、うまく死なせてくれるこの社会というものがある。そして君が生きようと死のうと、この社会は残る。それならば、この社会をどのような形で残すか、何を残すか、ということは君自身とも無関係ではないだろう。違うかね。」
ここに、実は成長というものを理解する大きな論点がある。
経済成長とは、親の世代の犠牲の上に子供の世代へ何かを贈ることなのである。 成長とは、今日の多少の犠牲によって明日をよりよくするということであり、しかも明日の状態を決定するのは、現在のわれわれなのである。ということは、われわれは、「明日」についての一定のイメージを持たねばならない。そのイメー ジに基づいて、明日は今日よりよい社会 である、と想定しているのである。この時に、われわれはひとつの価値を選択していることになるであろう。「よりよい社会」という価値判断がなければならないからである。 ところが、この価値判断は、決して個人からはでてこない。個人の次元でいえば、将来に向けて何も残す必要はないからだ。だから個体の生死を超えた「よりよい社会」というイメージがければならない。ここに、個人の事情や利益を超えた一種の公共精神がなければならない。
そこで、われわれは、物的な財貨であれ、サーヴィスであれ、精神的なものであれ、何かをこの『世界』付け加えることで、この『世界』をいっそうよいものにする、というと土産をこそ、 この「世界」をいっそうよいものにする、という公共精神をどこかでもたなければならないであろう。
こうして、われわれは、個体の生や死 を超越し、旨ここでの快楽や愉楽を超え出た「世界」へコミットしてゆく。それは、皆ここにいる自分からの超越でありこの状況をの超出である。未来へ 向けた自己超越である。皆ここでの快楽や便利さや利益や生活に満足し、そこで自足しているだけでは、この超越はでてこない。現在の状態に不満を持ち、いまこの状態に充足できないから未来へと投企しようとするのであろう。しかも、それは自分一人の個人的感覚や個人的利益の問題ではない。個人的事情などというものも超出しなければならない。それは未来へ向けた集団的投企であり、そこには「よりよい社会」という共通観念がある程度なければならないであろう。
ところが、われわれはいったいどのようにして「よりよい社会」などというイメージを共有できるのだろうか。われわれを取り巻いているこの「世界」へ、どのような貢献によってよりよいものを付け加えることができるのであろうか。 これは一種の形而上的な問いといってもよいだろう。経済学者は経済成長をあたかも物理学(フィジックス)のようにいくつかの因子のメカニックを関係によって数値的に扱おうとするが、本当に必要なのは、経済成長についての形而上学(メタ・フィジックス)にほかならない。 それは、価値への問いかけであり、成長の量ではなく質への問いなのだ。
冒頭に述べたように、「成長」という概念には、」どこか生命的なものを想像させるところがある。それは人間を含む生物的なイメージと重なり合う。ところが、人間の場合、成長とはとは、ただ生物的・生命的現象だけをさすわけではない。われわれはよく「あの子も成長したなあ」などという。その時、彼に身長が伸びたとか、体重が増えたということだけをいっているのではない。そうではなく、一人前の判断力を持ち、知的な能力や道徳的な能力を高め、他人との社会性を身につける、といったことまで含んでいる。ただただ体の表面積が膨張するのではない。「立派な人間になる」ことなのである。
ということは、ともかくも「立派な」という価値は共有されており、そこにひとつの価値判断がある。「何が立派なのか」という形而上学的な問いが隠されているのである。
それに比べれば、GDPで測定した統計数値が膨張したことを経済成長と呼ぶのは、身長計や体重計の数値が増加したといっているだけのことだ。体重の過剰増加によってバランスが崩れることもあるだろう。体がでかくなったからといって、知力や徳力が高まったという理由はどこにもない。
さらに「成長」という概念のいくぶん生物学的な意味合いをさらに拝借すれば、ある種の領域での成長は、ある限界までくれば衰退から死滅への道をたどることもありうる。いや、一定の役割を終えたものは、裏返して死滅するのが自然なのである。それを無理やり無条件に成長させることは、決して適切なことではなかろう。かくて「成長」の概念には、衰弱や持続や消滅さえもが、同時に示唆されていることになる。だから、シュムベー ターも、新機軸の登場は、既存のものの消滅を意味すると考え、「創造的破壊」と呼んだのであった。このことは再び、価値への問いかけを意味している。なぜなら、GDPの何%の経済成長などといって集計化したとしても、実は決して統計化できない変動が、その内部で生じている、ということを意味しているからだ。新たに展開し成長するものは何か、そのために消滅するものは何か、それを区別し、見極めるのは価値観であり、社会哲学なのである。
豊かさのパラドックス
ところが、今日の経済成長主義も、それを支える経済学も、いっさいの社会哲学とは無縁になってしまった。科学の名のもとに、社会哲学という自らの命綱を切り離してしまった。価値を問うという社会哲学などというものは、個人の自由 と利益の追求から出発する自由社会には余計なものである、というわけだ。 改めて言えば、現在われわれがおかれた状態よりも、将来世代の状態の方がよい、ということは、いいかえれば、わ われのおかれた現在の状態は、われわれの親たちのおかれた過去よりもよりよくなっている、ということを意味している。 経済成長を「社会進歩」とみなす成長主義は、過去を現在より劣った時代として否定する。そして現在は未来によって否定される。われわれは先行する世代の犠牲の上にこの生活を可能としているのに、 その先行世代を否定する。それは過去の忘却と否定によって成立している。しかもそれだけではなく、常に、未来の名によっていまここにある現在をも否定し続けるのである。
しかし、そんなことが可能なのだろか。そもそも過去と現在の幸福を比較することができるのだろうか。
試しに50年前と比べてみよう。日本では東京オリンピックが成功してまさに高度成長の真最中であった。この50年でG DP10倍近くになった。確かにモノは 増え、あらゆる意味で便利になった。新幹線網が張り巡らされ、電気製品はあふれ、しゃれた衣服はいくらでも手に入る。 多彩なレストランが次々と開店しグルメ情報は即刻入手できる。高度成長期に日本は驚くほど豊かになった、などとはしゃいでいた時代がかすんでしまうほど、この50年の経済発展は著しい。しかし、同時に失ったものも大きい。
それは、今日の状況を反転したようなもので、不便さのなかで必要なモノをやっと手に入れた喜びや、時間をかけてゆっくりと旅行をし、目的地までゆくゆるやかな快感、人との交わりのゆるやかな時間、まだ近隣というものがあり、そこに道徳的なものがゆったりと共有されているという安心感。これは一種の豊かさのパラドックスとでもいうべきもので、たとえば、真夏の暑い日、知人を訪ねても留守で、のどがカラカラになり、ようやく見つけた小さな店で一杯の水を飲む。この水にはいくら払っても惜しくないほどの効用がある。だが、今日まず、そのような事態に陥ることはない。第一に、知人が留守かどうかは携帯電話ですぐにわかる。水がほしければ、どこにでもコンビニがある。ペットボトルを持ち歩けばよい。ミネネラル・ウオーターも何種類もでている。水などそこら中にいくらでもあるので、わずあ一杯の水に感動するなどということはありえない。
確かに、今日の利便性やあふれんばかりのモノ社会では、水一杯にかくも苦労することはまずない。しかし言い換えれば、50年前には、たかが水一杯で、これほど満足をえることもできたのである。つまり、満足にせよ、効用にせよ、状況の問題なのである。いかなる状況下で、われわれがあるモノを手に入れるかこそが満足の指針になる。数量が、つまりGDPの大きさが問題ではないのだ。
確かに、2リットル入りのペットボトルの水を自宅に1ダースも抱えておれば、ストックされた水からえられる全体の満足度は大きいだろう。しかし、本当に意味ある満足は、炎天下でようやく手にした−杯の水なのである。それは家で飲むー杯の水とは比較にならない。経済学でいう限界効用の大きさは、一方では、分量が増えれば低下し、他方では、それがおかれた状況に依存するのである。おかれた状況とは、量ではなく質が問題だ、ということだ。
不便な時代にはむしろ不便の効用があり、モノの不足した時代には、不足の効用があった。量よりも質が問題であった。 人はモノを大事に使い、モノを大切にすることは、モノがただ物理的なモノなのではなく、そこにある種の神聖さや愛着や記憶といった要素を付加することを意味している。
また、ひとつの食器や一枚のレコード を大事にすることは、一種の道徳的で精神的な意義さえ帯びていた。「モノを粗末に扱ってはならない」という大昔からの道徳律は、モノが不足していたがゆえんの功利主義からでたのではなく、モノと人間の密な関わり合いこそが、「世界」を作り出すという哲学からでたのであった。モノは「世界」を構成する大事なアイテムだったのである。もしも、こうしてモノを大書に扱い、いつまでもとっておけば、GDPの増加にはまったく寄与しない。だがそれは、われわれを取り囲む日常生活の「世界」を豊かにするだろう今日、その逆に、モノは次から次へとあふれ出ては、流れ去ってゆく。経済成長とは、次々と、モノをあふれ出させては流し去ってゆくことなのである。このフローの洪水のなかをわれわれの生は流転してゆく。テレビのコマーシャルや雑誌によって、新製品の情報はあふれ、われわれは、何かが新しく商品化されるということ自体に関心をいだく。新奇さそのものがわれわれの脳を刺激するのである。経済成長主義とは、経済規模の拡大 という単なる事実をいうのではなく、モノと人間の関係の、「世界」と人間のあり方の変化を意味しており、それはまた価値観の変化を意味しているのだ。 モノが流れ去ってなくなっても、すぐに次のモノが手元にやってくるから、確かに、今日の生活は、50年前よりはるかに便利である。なくなってもすぐに次のモノが補充される。しかし、この現在を50年前と比べてどちらが幸福かなどと果たしていえるであろうか。そもそも比較が不可能なのだ。50年前に50歳だったものと、いま50歳になったものとどちらが 満足度の高い社会にいる九、などといっても意味はない。それを比較する尺度、つまり価値の基準がないからである。 だからこそ、われわれはGDPがどれだけ増えたなどというほかなくなってしまったのである。生活の質も満足の質も比較不可能だから、量で比較するのである。経済成長率何パーセントという数値だけが、この無意味さから現在に生きるわれわれを救い出してくれるように見えるのである。われわれの生活がよくなった、というだけのことである。犯罪があるあらそこに痕跡が残っているのではなく、何かを痕跡とみなしたためにそこに犯罪があった、といっているようなものである。 そして、これと同じ理屈をわれわれは将来へと延長しようとしている。将来のよりよき社会のために成長するのではなく、成長するから将来の生活はもっとよくなっている、というわけだ。しかしそんな理由はどこにもない。50年前を振り返っても、比較不能としかいいようのないものが、成長すれば50年後はもっとすばらしい社会になっているなどとどうしていえるのだろうか。比較などしても意味はない。
成長の原理
前回述べたように、われわれは、「生命」「自然」「精神」とともに「世界」を与件として日々の活動をおこなっている。 それは「人間の条件」である。「世界」とは、われわれが積み上げてきたストッ クである。それは、耐久性と歴史性をもっている。それは、人を社会とつなぎ、生の安らぎと精神の安定を与える。それは、日常的な生活の空間であり、愛着をもったモノに囲まれた空間であり、また、 生活する都市や建物であり、交通網であり、家族や知人などの集まりの「場」であり、伝えられてきた文化や芸術作品などから構成された「場」であり、教育やメディアを通して知識や道徳を伝達する「場」でもある。この「世界」がある程度、安定していて初めて、われわれは、 次の世代へ向けて社会を継続することができる。
いうまでもなく、「世界」を構成しているアイテムについては、計量できない。「世界」がこの一年で何パーセント増加しただの成長しただのということはできない。しかし、「世界」が脆くなったとか、不安定なものになったとか、変質してきたとか、といった「感じ」をもつことはできる。というよりも、われわれは、否応もなくそのように感じる。
実際、この十数年のことを、われわれ、「平均人」の生活にそくして考えてみよう。都市の巨大かや交通の発達は、かえって、日々の生を慌ただしくし、常になにかに向けて駆り立てられるような様相をていしている。地方では、商店街が崩壊し、郊外の光景はすっかり様変わりした。平均的家計の所得が低下して、家族の形も変わってきた。学校も多くのストレスや問題事例を抱えるようになり、教育の質も変化してきた。情報化と医療技術の発達のおあげで医療機関や治癒に対するわ れわれの関心は大きく高まったものの、 それは、医療を競争メカニズムのなかに 押し込み、医療格差をもたらすことともなっている。
こうしたことは「世界」の変容などである。それを引き起こしているものは経済成長であり、効率性を追求する市場競争である。そして、経済成長は計測可能であるが、「世界」の変化は計測できないのだ。経済成長の量の問題であるが、「世界」は質の問題なのである。 ところで、シューマッハーは『ステモール・イズ・ビューティフル再論』のなかで興味深いことを書いている。彼はイギリスに渡ってきた頃、ある農場で農業作業員として働いていた。毎朝、彼は牧場で牛の数を数える仕事wしていた。それを毎朝、彼は上司に報告するのだった。ところがあるとき、牛は31頭しかいなかった。探してみると一頭死んでいたのである。そのとき、自分がまったく間違ったことをしていたことに気付いた、という。彼はただ数を数 えることにしか関心をもをなかった。計量すること、つまり、統計的数値にしか神経を集中しなかった。もしも、牛の状態を一頭ずつ見ておれば、一頭も死なせることはなかっただろう。問題は、計測できる量ではなく、質である。牛が健康なのか、毛のつやがどんな具合かを見ておけば死を防げただろう、というのだ。
実は、このエピソードにはもうひとつ話がからんでいる。シューマッハが牛の数を数えるのをみたある農夫が次のようにいった。「牛の数ばかりかぞえていても牛は増えないよ」と。その時、シューマッハは、自分はプロの統計家だ、この田舎者は何をつまらないことをいっているのだ、と思った。しかし、それは間違っていた。農夫が正しかった。彼は一頭、一頭の牛の状態を見ないと、いずれ死なせてしまう、といいたかったのだ。
シューマッハの雇い主がもし経済学を知っていたら、死ねば新しい元気な牛を補充すればよい、というだろう。もし、この事業で成功したければ、死んだ牛を新しい牛に変えて数を増やせばよい。元気な牛が生み出す利益が牛を取り替えるコストを上回れば、牛の頭数を増やせばよい。だが32頭ならまだしも、この農場が「成長」して320頭にでもなったら、ただ数を数えるしかできないであろう。これが成長の原理である。
成長の原理を支えているものは、統計の力でありシューマッハの言葉を借りれば「量の支配」である。「純粋に量的を扱いは、本当に大事なことをいっさい見逃してしまう」というのである。 「本当に大事なこと」は、「世界」の側にある。人が牛をケアし、牛の健康を保 ちながら、牛乳を恒常的に産出する。この場合、人と牛の共同作業場はひとつの「世界」だ。そして、この「世界」がうまくゆくには、あまり農場の規模が大きくなっては困るのだ。適切な規模というものがある。一頭、一頭のケアが可能な規模というものがある。「世界」はある程度、安定したものでなければならないのである。それを維持してはじめて、牛の状態を一目で見てとるという英知も育つであろう。経済成長は、「世界」を崩すことで、この英知まで破壊することがあるのた。
「安易で快適な時間を約束してくれるものを手に入れるために、この伝統的な英知がすべて排されたのである」というシ ューマッハーの言葉が多少大げさだとしても、少なくとも、「多ければ多い方がよい」「大きければ大きいほどよい」という「量の支配」が、「世界」を組み立てていた伝統や慣習に埋め込まれた英知 (先の農夫のもっているような英知)を あまりに簡単に見捨ててしまう可能性は無視できない。 経済成長そのものが無条件で間違っているわけではない。彼が述べるように「経済成長は、それ自体では、よいことでも悪いことでもない。何が成長しており、何が排除されたり破壊されたりしているのかが問題なのである」。人とモノがかかわり、私と他の人(時には牛)がともに生み出すこの「世界」に対して寄与する成長は「よい成長」であるが、それを損なう成長は「悪い成長」というほかないであろう。ここでも、問題はGD Pではなく、「世界」をどのようなものとして理解するがという「価値」にかかわっているのである。

【新潮45 2017年1月号 佐伯啓思著】

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(9)失政のツケをまた…安倍政権が4月から“年金支給額カット”

昨年末に成立した年金カット法の施行は2021年だが、それを待つまでもなく、容赦ない年金支給額の削減が始まった。政府は3年ぶりに支給額を引き下げる。
 年金支給額は、物価や賃金の変動に応じて毎年決められることになっている。厚労省は、27日に公表した1年間の消費者物価指数をもとに、新年度(今年4月から)の支給額を決定。下げ幅は16年度より0.1〜0.2%の減額になる。
 厚労省の試算によれば、0.1%引き下げた場合、夫婦2人の標準的な世帯で、国民年金が満額で月額67円減って6万4941円に、厚生年金が227円減って22万1277円に。0.2%の引き下げだと、国民年金が満額で125円減、厚生年金は437円減だ。年間では6744円の減額になり、その影響は決して小さくない。
「年金支給額は毎年、物価や賃金の変動に応じて決められることになっています。昨年1年間で、物価水準が前年より顕著に下落したと思われるため、支給額も引き下げる方向です」(厚労省関係者)と言うのだが、ちょっと待て。
ことあるごとに、「デフレから脱却した」「賃金も上がった」と喧伝してきたのが安倍首相だ。施政方針演説でも、安倍首相は「べースアップが3年連続で実現」「経済の好循環を前に進めていく」と成果を誇っていた。それなのに、物価下落で年金支給額も減額? それはすなわち、物価上昇を目的にしたアベノミクスの失敗を自ら認めることになるのではないか。
「語るに落ちるとはこのことで、賃金は上がっていないし、デフレ脱却も程遠いのが現状だということです。年金支給額の引き下げは、政府の失策のツケにほかなりません。しかも、安倍政権は株価を吊り上げるために、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)のポートフォリオを変更し、株式投資の比重を高めた。その結果、この2年間ですでに約8兆円の損失を出しています。昨年10〜12月期の実績はまだ公表されていませんが、国民の虎の子をギャンブルに突っ込み、それで支給額を減らされるのでは、国民は到底、納得できません。勝手に支給額引き下げを決める前に、なぜこんなことになるのか、きちんと国民に説明すべきでしょう」(経済ジャーナリスト・荻原博子氏)
 自分の失敗を庶民に押しつけるのは、いい加減にしてもらいたい。

【日刊ゲンダイ 2017年1月27日】

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(10)「黒田総裁」白旗で、「日本銀行」と「日本財政」の漂流先

■「黒田総裁」白旗で、「日本銀行」と「日本財政」の漂流先
デイヴイッド・ハルバー スタムの『ベスト&プライ テスト』は、米国の指導者たちが、いかにしてベトナム戦争の泥沼に引きずり込 まれたかを描いた名著だ。 聡明なはずの人々が、判断を誤り、一国を窮地に陥れることもあるのだとすれば、黒田東彦・日銀総裁の金融 政策は後世にどう評価されるのだろうか。金融の世界において「本石町」といえば、東京・日本橋本石町にそびえ立つ日 本銀行本店のことを指す。
わが国の金融政策を決める 「金融政策決定会合」は、年8回、その新館8階にある政策委員会室で開かれる。テレビなどでは、大きな円卓を囲んで総裁、副総裁ら9人の委員が座っている様子が映されるが、実際に そこにいるのは彼らだけではない。
元日銀副総裁の藤原作弥氏によると、「政策委員会室には日銀内の各部署から担当理事、審議役、局長、課長クラスまで数十人の幹部が集められます。彼らは円卓の前に置かれた椅子にずらりと座り、メモを取る。壁には、株価や為替相場を示すボードが掛かっており、リアルタイムでマーケットをにらみな がら議論するようになっています」
その部屋の主である黒田総裁もまた、我が国のベスト&プライテストである。だが、11月1日に開かれた金融政策決定会合は、彼の「敗北宣言」の舞台となってしまった。 この日、黒田総裁は年2 %のインフレ目標を2017年度中から「18年度ごろまで(つまり、19年3月まで)」と先送りを発表したのだ。総裁任期は18年4月までだから、自分の在任中の達成は不可能と“白旗” を上げたことになる。
振り返れば、黒田氏が白川方明前総裁の慎重路線を否定する格好で日銀総裁に 就任したのは13年3月のこと。安倍政権が打ち出した「アべノミクス」を体現するべく、翌4月に大規模な金融緩和策(黒田バズーカ) を発表し、世界中をあっと驚かせた。それは、毎年50 兆円のペースで国債を買い上げ、また、それぞれl兆円、300億円ずつETF(上場投信)やJリート(不動産投信)を買い集めるという大胆なものだった。 「まさにジャブジャブ金融です。これによって、市中にお金を溢れさせ、企業が借りやすくする。また、通貨の価値を下げることで、 円高の是正と物価の上昇をうながすのが狙いでした。 物価が上がれば企業の収益が改善し、それにつられて給与も上昇する。それがまた、国民の消費を刺激する というシナリオの、壮大なク“実験”だったのです」(経済部記者) その結果、確かに1j70 円台まで突き進んでいた 「円」は、急激に円安に振れる。一時は120円を突破し、輸出産業は息を吹き返したかに見えた。株価も2万円をつけるまで上昇したのは、黒田総裁の手腕といえる。
ところが、「黒田バズー カ」の主目標である物価は思惑通りにならなかった。14年こそ、消費税増税前の駆け込み需要で2%を超えたものの、15年は逆にl%を割り込んでしまう。その間、日銀は4度にわたる「追加緩和」を打ち出し、国債の買入額を年80兆円、ETFの購入額も年6兆円まで膨張させる。まあ、今年1月には、史上初のマイナス金利まで導入し、 資金を寝かせている金融機関の尻を叩いた。だが、蓋を開けてみれば、 今年度の物価上昇率はマイナス0・1%(見込み)という体たらく。世間を見渡せば、相変わらず100円 ショップばかりが流行り、サラリーマンは一杯380 円の牛丼で昼飯を済ませている。サラリーマンは一杯380円の牛丼で昼飯を済ませている。名目賃金はわずかしか上がっていない。会合が終わって会見場に 姿を見せた黒田総裁は、失敗の理由を聞かれて、淡々 と、「原油安や新興国経済の減速」と説明したが、責任を問われると「自分の任期と物価は関係ない」と逃げの一手。それにしても、黒田総裁 のシナリオはなぜ崩れてし まったのだろう。
■「ブタ積み」
元大蔵官僚で法政大学教 授の小黒一正氏が言う。「黒田さんが年2%の物価 目標を掲げたのは“物価が上がると景気が良くなる? と信じていたからでしょう。 しかし、インフレ率(生鮮食 品を除く)が2%を超えたのは、最近でも89年の消費税導入の時と、湾岸戦争で原油が高騰した時ぐらい。よほどのことがない限り達成できる水準ではなかったのです」 そもそも、日銀が白川前総裁時代から顕を悩ませていたのは、日銀がいくら働 きかけでも金融機関が企業に金を貸そうとしないことだった。銀行は、日銀から 資金を預かっても、引き出さずに日銀の当座預金に置いたまま。金融界では、これを「ブタ積み」と呼ぶ。
「そこで黒田さんが考えたのは“日銀がどんどん銀行から国債を購入し、これまで以上に大量に資金供給を行えば、おカネが余った銀行は、仕方なくどこかの企業に貸し出すはずだ?というものでした。でも、白川総裁の時代にも量的緩和はやっていて、そのようなメカニズムは働かず、インフレを引き起こす効果は限定的と分かっていた。ところが、黒田さんはそれを“異次元?と称して大規模にやってみた。その結果、やっぱり効果はないとハッキリしたというわけです」(同) だしかに黒田総裁の金融 緩和によって日銀から銀行に流れる資金は増えた。ところが、その金はまたもや 「ブタ積み」され、当座預金 が増えただけだった。貸し出す先がなかったのである。 元日銀金融研究所長で千葉商科大学大学院名誉アドバイザーの三宅純一氏も言う。
「そもそもインフレターゲットというのは、高くなったインフレ率を押し下げるためにある理論なのです。それにもかかわらず、黒田総裁は“押し上げる?と宣言してしまった。よせばいいのに資金供給を2年で2倍 に。そして物価上昇率を2 %にする?と『2』という数字を並べてキャッチフレーズにした。前総裁の白川さんへの対抗意識から、分かりやすいパフォーマンスをしょうと思ったのでしょう。 金融政策を担うものとしでは、非常にポピュリズム的であり、この時点で、雲行きが怪しいと思っていました」 高すぎる目標と、実証さ れていない理論、そして行き過ぎたパフォーマンスに、 現実がついてこなかったというわけである。
だが、黒田総裁が異次元緩和を繰り返してきた3年半、 日銀が抱えてしまった“負の遺産?は余りにも大きい。
■政策金利を上げられない
シグマ・キャピタルの田代秀敏チーフエコノミストが、日銀のバランスシートを見ながら解説する。「まず、10月31日の時点で、日銀が抱える長期国債の銘柄別残高は、柄別残高は348兆411 7億円、これまで買いまくった長期国債の総額ですが 黒田バズーカ?が発射される前の3倍強に膨れあが っています。ところが、日銀は相場より高く買い付けているため、実際の取引価格はこれより安い。残高との差額は9兆3211億円 もあり、これがそのまま含 み損になってしまうのです」
もちろん、日銀には7兆 円以上の厚い自己資本があるはずだ。「しかし、これを含み損に補填したとしでもまだ追い つかず、現状では差し引き 約1兆7000億円の債務 超過となっているのです」(同)絶対に潰れないはずの日本銀行が、こんなボロボロの財務状態なのである。それだけではない。さらに怖いのは、年間6兆円を 買い付けているETFやJリートだ。たとえば大型E TFの「日経225連動型上場投信」は、構成比率に合わせて225種の株に投資する仕組みになっている。これまで日銀は指数連動型を中心に約10兆2000億円のETFを買い付けており、間接的ではあるが、フ ァーストリテイリングやT DKの筆頭株主だ。
「すでに株式市場における 日銀の存在は巨大です。もし、日銀が金融緩和策の出口でETFを売却することが察知されたら、日本株はそれだけで暴落を起こします。
それでなくとも、仮にリー マンショックのような事が起きて株価が半減すれば、 日銀は20兆円規模の評価損を被ってしまうのです」(同) もっとも日銀だから、どんなに赤字でもお札を刷ってしまえば大丈夫、と思わ れているかもしれない。 だが、何もしなくとも水ぶくれになったバランスシートがいかに危険なことか、ニッセイ基礎研究所の上野剛志シニアエコノミストが指摘するのだ。
「中央銀行である日銀の一 番の目的は、何より物価の安定です。インフレが起こりそうになれば、政策金利(銀行間の取引金利)を引き上 げ、物価を抑制する。ところが、現状は銀行から国債を買い上げたことで日銀の 座預金口座に300兆円 以上がブタ積みになっている。これは政策金利をl% 引き上げただけで、3兆円 の利息を払わないといけない計算です。そうなったら、自己資本の7兆円など2年〜3年でほぼ消えてしまう。異次元緩和をやってしまったことで、日銀は自分の手を縛ってしまったのです」 黒田氏は、若い頃、英オックスフォード大学に留学し、ジョン・ヒックス博士の薫陶を直に受けている。ケインズの後を継ぐノーベ ル経済学賞の受賞者だ。元犬蔵官僚から、アジア 開銀総裁、そして、エコノミストの頂点に立った黒田総裁は、自分が温めてきた「理論」を試したかったのかも知れない。日本の財政 を漂流させてでも。

【週刊新潮 2016年11月17日】

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(11)アベノミクスの矢がいつまでも的外れな「本当の理由」

アベノミクスの矢がいつまでも的外れな「本当の理由」
現実離れした新・三本の矢は旧・三本の矢の失政隠しか?
アベノミクスが第2ステージへ移った。安倍首相は「強い経済」を最優先に、新たな3本の矢を提唱した。これまでの「大胆な金融緩和」「機動的な財政出動」「民間投資を喚起する成長戦略」という3本の矢に加えて、「希望を生み出す強い経済」「夢を紡ぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」という新たな3本の矢を掲げて、「誰もが家庭で職場で地域で、もっと活躍できる1億総活躍社会」を目指す、と宣言した。
強い経済では、2014年度に約490兆円であったGDP(国内総生産)を2020年には同600兆円に増やすことを目標に掲げている。子育て支援では、欲しい子どもの数をもとに算出する希望出生率1.8の実現を提案している。社会保障では、介護離職ゼロをはじめ、生涯現役社会の構築、待機児童ゼロや幼児教育無償化、3世代同居拡大などの支援策を掲げ、50年後も人口1億人を維持するという国家としての意思を明確にする、と明言した。2017年4月に予定している消費税率の10%への引き上げについても、「リーマンショックのようなことが起きない限り、予定通り実施する」と強気である。
来年夏に参院選を控えているとはいえ、安倍首相は先の第3次内閣の発足に際し、国民へ向けて発したメッセージとしてはいかにも軽く、言葉だけが踊り過ぎていて、空しさを禁じ得ない。とりわけ「GDP600兆円」とか「希望出生率1.8」とか、揚句には「介護離職ゼロ」に至っては、いずれも現実離れした無責任な夢物語で、いかにも客寄せのセールストークに近い。
国民が切望しているのは、地道で実現可能な政策目標であり、より具体的な施策の着実な有言実行である。そのためにも、第1ステージの総括が必要不可欠であるが、安倍政権には今のところ総括する気配はない。むしろ、第2ステージの「新・3本の矢」は第1ステージの失政を覆い隠すための目くらまし政策であり、プロパガンダ(喧伝、吹聴)ではないのか、との厳しい批判も広がっている。
アベノミクスの第1ステージがスタートしたのは、2012年12月のこと。間もなく3年になるが、結論を先に言えば、3本の矢はいずれも初めから的が外れており、焼き石に水ではなかったのか、と言わざるを得ない失政である。
第1ステージでは当初、円安や株高が進み、企業業績は回復、改善し、好転した。しかしデフレ脱却を決意して掲げた、物価を2年以内に2%へ上昇させるというインフレ目標はいまだ叶わず、GDPも今なお伸び悩んでいる。待望の景気回復や経済成長の押し上げ効果も芳しくない。打ち出してから2年半に及ぶ異次元緩和の第1の矢は、年80兆円の国債購入など、かつてない大胆な施策を繰り出したが、笛吹けど踊らずで、物価にも景気にも響かず、期待外れに終わっている。最近は、追加緩和への待望論まで取り沙汰されている。
機動的な財政運営の第2の矢は、計19兆円規模の3度にわたる財政出動などで、いわゆる有効需要政策を繰り出したが、これも眼に見えるほどの需要効果を発揮しているとは聞いていない。民間投資を喚起する成長戦略の第3の矢に至っては、規制改革をはじめ、女性が輝く社会の実現など、多くの施策を次々と公表したが、そのほとんどが手つかずのままで、期待を裏切っている。円安効果は、確かに外国人観光客の増大で「爆買い」が低迷する内需を下支えしているが、その一方で輸入価格の上昇が個人消費を冷やしている。異次元緩和による国債の大量購入も、課題解決の負担を先送りしているだけで、決して賢い善政ではない。日銀が大量に買い入れた国債はいずれ売却しなければならず、それまで国債価格を下落させずにいかに保全するか。いわば出口で軟着陸するための出口戦略が至難である。出口戦略は米国でも10年、20年の先行き見通しを要しており、日本ではさらなる歳月を要することは必至である。
アベノミクスの放つ矢はなぜ的が外れているのか?
それにしても、アベノミクスはなぜ、的が外れているのか。その要因には3つある。1つには、政策立案の大前提となる現状認識に決定的な事実誤認があること。2つには、日本経済の長期低迷の要因分析をあえて怠り、そのすべてを非科学的な「バブルの崩壊」で片づけ、それ以上の真摯な追求を蔑ろにしていること。そして3つには、視点と問題意識が総じて、企業などの供給や生産サイドへの配慮を優先し、消費者や生活者などの需要や消費サイドへの配慮を無意識のうちに後回しにしていることである。
安倍政権にとっては、いずれもその背後に「不都合な真実」が隠されているため、故意に覆い隠したかったがための手抜き策ではなかったか、と勘繰っている。
さて、前述の第1の要因は、アベノミクスの原点から検証していく必要がある。2013年1月の国会において、安倍首相は所信表明演説の中で、次のように述べている。
「我が国にとっての最大かつ喫緊の課題は、経済の再生です。(略)これまでの延長線上にある対応では、デフレや円高から抜け出すことはできません。だからこそ、私はこれまでとは次元の違う大胆な政策パッケージを提示します。断固たる決意を以って、強い経済を取り戻していこうではありませんか」
これがアベノミクスの趣旨と狙いであるが、そのアベノミクスを必要としている日本経済の現状認識については、閣議決定した「基本方針」の中で次のように記述している。
「1990年代初頭におけるバブル崩壊を大きな節目として、日本経済は現在に至る約20年間、総じて低い経済成長に甘んじてきた。(略)我が国が取り組むべき課題は、先ず第1に長期にわたるデフレと景気低迷から脱出することである。(略)安倍内閣は相互に補強し合う(略)3本の矢、いわゆるアベノミクスを一体として、これまでと次元の異なるレベルで強力に推進していく」
「失われた20年」は事実誤認? 日本経済は1997年まで成長を維持した
この現状認識には極めて基本的な事実誤認があり、看過できない。真実は1つなので、いかなる統計を見ても同じであるが、事実は1990年から1997年までは一貫して右肩上がりで成長を続けているということだ。90年を100とすると、97年は112で、この間の年平均成長率は2.2%であった。それが右肩下がりの低迷期に陥るのは98年からである。97年を100とすると、2013年は91で、この間の年平均成長率は0.6%のマイナス成長である。
したがって、日本経済が長期停滞に陥り始めたのは、98年以降のことなのである。「失われた20年」と言われてからすでに久しいが、その起点は決して90年ではなく、実は98年からのことであったわけである。今、改めて「失われた20年」を正確に言い換えれば、今年は「失われてから18年」目を迎えている。
日本経済の長期低迷を脱して、再生させる狙いはアベノミクスの本命中の本命の狙いで、3本の矢はいずれもこの的を射抜くために集中させていたと言っても過言ではない。それにもかかわらず、肝心な長期低迷の実態把握を「90年代の初頭におけるバルブ崩壊を大きな節目として、日本経済は現在に至る約20年間、総じて低い経済成長に甘んじてきた」とは一体、どういうことか。あまりにも大雑把で、事実を大きく誤認、逸脱している。
これでは、長期低迷から脱して、再生させるために欠かすことができない要因の分析、究明も正確にできなければ、把握もできず、ましてや的を射た政策や対策を打ち出すことができるはずもない。
1998年から始まった長期低迷で、雇用者報酬と国内民間需要が下落
では、日本経済はなぜ1997年をピークに、98年から右肩下がりのマイナス成長に陥ったまま、浮上できずにきてしまったのか。国民所得統計によると、長期低迷の背後には98年を起点に低迷傾向を辿り出したGDP(国内総生産)の増減傾向とほぼ軌を一つにして、雇用者報酬の下落傾向と国内の民間需要の減少傾向を見て取ることができる。
雇用者報酬とは、国内で雇用されて働く人々が1年間に受け取る給料や賞与、手当などの総額である。これが97年までは一貫して右肩上がりで、それも急カーブで増え続けるが、98年からは右肩下がりに転じて、下降線を辿っている。
国内の民間需要とは、家計の消費支出と住宅建設で、全体の8割を占めている。これも97年までは右肩上がりで増化傾向を辿るが、98年からは若干の増減を繰り返しながらも、減少傾向を辿っている。
雇用者報酬と国内の民間需要とGDPの相関関係は、極めて高い。雇用者報酬が下がれば、国内の民間需要は減るし、国内の民間需要が減れば、日本経済の総需要が減る。総需要が減ればGDPを減らし、押し下げることになる。逆も真なりで、雇用者報酬が上がれば、最終的にGDPを増やし、押し上げることになる。
総需要は、国内の民間需要と政府需要と輸出の合計で、国内の民間需要が全体のおよそ65%、ほぼ3分の2を占めているため、国内の民間需要の増減がGDPのそれに与える影響力は大きい。日本経済が97年をピークに、98年以降は長期低迷に陥り、「失われてから18年」を余儀なくされているのは、よく世界経済のグローバル化や新興国の台頭など、その主因を外圧に求める向きもある。しかし、国際比較統計からはそれを認めることはできない。なぜならば、97年を100として98年以降のGDPと平均賃金の推移を国際比較すると、欧米の主要各国はいずれも右肩上がりの上昇傾向を辿っている中で、日本だけが取り残され、GDPも平均賃金も共に緩い下降線を辿っているからである。
98年からの日本経済の長期低迷の要因は、紛れもなく国内要因によることは明白である。だからと言って、これをも非論理的な「バブルの崩壊」でフタをして、終わりにしては真相の究明にならない。
「賃金の上がらない」構造が体質化、これこそが日本経済の長期低迷の主因
実は第2の要因はこの真相の中に隠されていたのである。つまり、総需要やGDPを押し下げてきた先行要因の雇用者報酬が97年までは順調に増加傾向を辿ってきたのに、98年からは急に下降線を辿り出したのはなぜか。この背景にこそ、真相の核心が隠されている。
結論から先に言えば、その時々の政権が96年以降に繰り出してきた日本経済の構造改革政策が、日本経済の秩序をいわば「賃金の上がらない」構造へ改革し、体質化させてすでに久しく、その構造と体質が今や骨肉化して、今日に及んでいる事実と現実こそが日本経済の長期低迷の主因である、と確信している。
それはどんな事実で、現実なのか。ひとことで言えば、戦後の高度成長以来、日本経済の成長、発展の歯車を底辺から支え、推進してきた企業戦士といった、いわゆるエンジン役を果たしてきた「雇われ軍団」が、取り返しのつかないモラールダウン(やる気の委縮)に陥っていることである。
歴代の政権が歳月を費やして労働者派遣法の相次ぐ執拗な改正で同軍団を正規、非正規に分断し、差別と格差で疎外し、労働分配率の低下で蔑ろにしてきたため、雇われ軍団のやる気をはじめ、生産性の向上力や購買力、さらには生活力から生きる力まで萎えさせてきた事実と現実は、日本経済の足腰を弱め、再生への復元力を失わせている。「失われた20年」で言うところの失ったものとは何か、と問われれば、残念ながら「雇われ軍団」のモラールダウンと言わざるを得ない。
当時の構造改革政策は、橋本政権の96年からの同政策をはじめ、2001年から09年にわたる小泉、安倍(第1次)、福田、麻生の各政権がそれぞれに同名の政策を次々と繰り出して、日本経済を「賃金の上がらない」構造と体質へ、いわば上塗りしてきた経緯がある。このことは、07年版の『経済財政白書』や12年版の『労働経済白書』も認めている。両白書とも、企業業績や景気が回復、改善して、企業の収益構造には賃上げの余地が十分に出てきているにもかからず、雇用者の賃金が上がらなくなっている実態を分析している。
ただ、白書はこの実態分析の結果を客観的に認めているだけで、これがその時々の各政権が繰り出してきた構造改革政策によってもたらされたものとは、触れていない。しかし、日本経済を「賃金の上がらない」構造と体質へ十数年にわたって改革し、その構造と体質が日本経済を長期低迷へ追い込んだ悪循環の因果関係は疑う余地もなく、この事実と現実に対する現状認識への欠如が的外れの元凶である、と筆者は確信している。
労働者派遣法改正が象徴する、強きを扶け、弱きを挫く政策
これが、的外れの第3の要因である。安倍首相は「アベノミクスで雇用は100万人以上増えた」と自画自賛する。安倍政権が発足する前の12年春からの3年間で、非正規雇用者は確かに約178万人増えたが、正規雇用者は逆に約56万人も減っている。企業は正規雇用者が退任しても、新規採用は非正規雇用者で補充し、なかには企業側の都合だけで正規社員を非正規へ、勝手に切り下げる傾向も広がっている。
先の国会で成立した労働者派遣法の改正では、企業は働く人材さえ代えれば、派遣社員を雇い続けることができるようになるため、労組側は「正規を非正規へ置き換える動き」に拍車がかかるのは必至、と恐れている。
労働者派遣法は、価値観やライフスタイルが一段と多様化していく中で、働き方や社会参加への選択肢を豊かにしてくれる点で、ごく一部の人たちにとっては確かにプラス面も無視できない。しかし、同法の思想をはじめ、趣旨や狙い、理念や目的が非正規の雇用形態を法的に正当化する点で、雇う側には圧倒的に利するが、雇われる側には絶対的に不利となる悪平等な法律である。
アベノミクスは、意図的か否かは別として、結果として紛れもなく「強きを扶(たす)け、弱きを挫(くじ)いて」いるのが最大の欠点であり、労働者派遣法の規制緩和はその象徴である。
アベノミクスは、日本経済の「賃金の上がらない」構造と体質からの脱皮策を最優先課題として、出直しを急ぐべきである。

【ダイアモンドオンライン 嶋矢志

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(12)浜田宏一君は内閣参与を辞任せよ
―金融緩和の失敗は最初からわかっていたー

内閣官房参与の浜田宏一君にこんな手紙を出したことがあります。(二年前からアベノミクスの大失敗がはっきりしており、今年になって株は大暴落し、ベース・マネーはすべて、投機に使われたことが改めて顕現いたしました。
(中略)浜田先生、これ以上日本経済を混乱させないために、内閣官房参与を辞任されては如何ですか?
(中略)浜田先生のように、責任ある地位にある学者が日本を破滅と自滅に追い込んでいるのです>
私は前々からアベノミクス、特に 超金融緩和政策に反対をして来ました。物価上昇がいっこうに起こらず、株価が上景しても利益を海外に奪われるばかりなのに、それでm緩和策に固執する姿を見て、知らぬ仲ではない浜田君に思い余って手紙を書いたのは、昨年1月のことです。でも浜田君は意見を変えてくれませんでした。アベノミクスの理論的支柱である彼には、そう簡単に意見を変える自由などないのかもしれま せん。浜田君が変わったのは昨年11月以降のこと。日本経済新聞紙上と「文藝春秋」誌上に相次いで、自身が主張してきた経済政策についての軌道修正を表明しました。
本誌1月号「『アベノミクス』私は考え直した」では次のように語っています。
<今、日本経済は世界各国で起こる波乱要因に翻弄されています。特に過去1年余り、予想外の出来事によって、アベノミクスはやや手詰まり感を見せています。
(中略)私が「自分の考える枠組みに変化がある時は、正直にそれを伝えたい」と思ったことは事実です。
特に、アベノミクス3本の矢のうちの1本目、変え自信が必要性を度々強調してきた大規模な量的・質的金融緩和の限界を認め、これまでほとんど無視してきた財政政策の必要性を主張するようになったのです。 しかし、その語り口はまるで「僕にも知らないことがあった」と言っているようであまりに軽く、国の経済政策を誤らせた責任の重大さを痛切に感じているようには受け取れませんでした。 最初から間違った方法論を採用していたから、アベノミクスは失敗したのですが、その失敗が各種統計から明らかになってきた現在、浜田君は政策を主導してきた一人として責任を取るべきだ私は考えています。
こう語るのは、日本金融財政っ研究所所長の菊池英博氏(80)。菊池氏は旧東京銀行(現・三菱東京UFJ銀行)勤務を経て、文京女子大学教授などを務め、一貫して市場任せの新自由主義的な経済政策を批判してきた。浜田氏とは学部は違うものの同時期に東京大学で経済を学んでいた。
私は銀行、浜田君は学者の道を歩み東大教授になりましたが、浜田君の同僚であった友人から彼の動静を折につけ聞いておりました。経済政策について彼と話をするようになったのは2001年ころからです。イエール大学の教授だった浜田君は、01年1月に省庁再編に伴う機構改革で内閣府に誕生した経済社会総合研究所の初代所長として、アメリカから招かれていました。
私は文京女子大学の教授で、98年には「日本の不良債権問題は大恐慌型なので公的資金を大手行に注入すべきである」と新聞紙面などを通じて提案し、それが金融機能早期健全化法につながりました。また01年に内閣府が開催した不良債権問題に関する国際フォーラムにも、司会の浜田君の招きで出席しました。メインテーマの不良債権問題に関しては意見がほぼ一致したのですが、金融政策に関しては当時から意見が正面からぶつかりました。 02年10月に広島で開催された日本経済学会のシンポジウムで、私が小泉構造改革を批判したときのことです。小泉政権の経済政策を一言でまとめるとすれば「財政緊縮・金融緩和」。私はその席で「小さな政府」を目指す緊縮財政路線は決定的な間違いだと指摘し、その路線で構造改革を進めると「必ずデフレが深刻化する」と発言しました。 そのとき浜田君はシンポジウムの司会役で、「そうは思わない」と反論しました。そして金融緩和の有効性について持論を展開し、小泉・竹中の構造改革路線を支持する一方で、当時の緩和策では不十分だと日銀を批判したのです。 オープンな学会でのやりとりだったので巷でかなり話題になりました。広島からの帰りの電車でいっしょになった岩田規久男君(現・日銀副総裁)にこう声をかけられたのを覚えています。「菊池さん、思い切ったことを言いましたね。これから議論になっていくテーマですよ」
岩田君は日銀批判でその名を知られていた学者で、当時の速水優総裁が進めていた量的緩和では物足りないと舌鋒鋭く批判していました。 その後、浜田君は二年の任期満了に伴い所長職を辞し、アメリカへ戻ります。日本に戻ってくるのは十年後。そしてこの不在期間が長期に及んだことで、日本の金融政策を考える上で重要な視点を欠いてしまったのだと私は見ています。
実は、リフレ派の主張する量的・ 質的金融緩和は世界に先駆けて日銀によって実行されており、日本は金融緩和において世界一進んでいたと言って過言ではないのです。それを浜田君は理解していませんでした。 速水総裁がゼロ金利政策を採ったのは01年3月。03年に福井俊彦総裁が就任してからも日銀史上例のない方針は継続され、それは06年7月まで続きました。一国の金融がどの程度緩和されているかを知る指標として、「マネタ リーベースのGDP比率」があります。マネタリーベースとは簡単に言うと「市中に出回っている現金」と「日銀にある金融機関の当座預金」の合計のことですが、そのGDPに対する比率は00年時点でも、アメリカ5・9%、ユーロ圏6・9%に 対して、日本は12・9%と突出していました(野村総研チーフエコノミストのリチャード・クー氏の計算による。以下同様)。
その後も日本では金融緩和が進められたので、第二次安倍政権が発足した12年になると、アメリカ18・3%、ユーロ圏17・7%に対して、日本は27・9%まで上昇。 先進国では突出して綾和が進んでいたのです。日銀は緩和によって銀行の貸出が増えると期待していました。ところが、マネタリーベースをいくら増やしても、銀行は貸し出しを増やさずマネーストック(金融部門から企業や家庭に供給されている通貨の総量)が期待通りには増えませんでした。実際に景気の動向を左右するのはマネタリーベースではなくマネーストックのほうです。マネーストックが増えなければ金融緩和は意味がありません。つまり金融緩和の限界は、アベノミクス以前に明らかだったのです。ところが浜田君は長期間日本を離れていたせいか、国内の景気動向や企業の実態を掴めていなかったのでしょう。銀行が貸し出しを増やさないのは緩和が足りないからだと思い込んでしまった。日銀が世界に先駆けて金融緩和という実験をしていたことを見落としていたのです。 浜田君はいい意味でも悪い意味でもアカデミズムの世界の学者であり、金融機関の実情をわかっていません。私は銀行員だったので、日銀がいくら金利を下げても、銀行の現場が民間への貸出を簡単に増やせないことを経験的に知っていました。貸し出しを増やすことでリスクを負うことを恐れる銀行員のマインドは、日銀が資金量を増やすだけではどうにもならないのです。
浜田経済学の貧困さ
その浜田君がここに来て金融緩和の考えを改めたのはなぜか?本誌1月号の記事を読むと、「僕にも知らないことがあった」からだということですから、私は開いた口がふさがりませんでした。
浜田君は昨年8月に、アメリカのジャクソンホールでプリンストン大学のクリストファー・シムズ教授の講演を聞いてハッとさせられたのだそうです。浜田君は次のように語っています。
<私はシムズ氏の論文を読み、衝撃を受けました。「金融政策はなぜ効かないのか」という問いに、明快な答えを与えていたからですシムズ氏は「金融政策が効かない原因は『財政』にある」というのです。
(中略)現在の日本の状況も例に挙げて、」なぜ金融政策だけではうまくいかないかをずばりと言い当てていました。
シムズ氏は、金融緩和が有効であることを認めたうえで「より強い効果を出すためには、減税など財政拡大と組み合わせよ」と提唱しています。従来の経済学では、財政規律が緩むと、過度なインフレを招くうえ に財政赤字はかさみ、経済にダメージを与えることが強調されていました。しかし、シムズ氏は意図的に「赤字があっても、財政を拡大するべき(時もある)」と主張します。これは斬新なアイデアでした。
(中略)論文を読み、量的・質的緩和が効かず、インフレが起こらない理由は、「財政とセットで行っていないからだ」と分かったのです) 私はこれを読んで、浜田君がシムズというノーベル賞学者の講演に飛びついた印象を受けました。おそらく二年くらい前から浜田君は徐々に自身の考えに自信を失いつつあると見ていたからです。 そのころ(14年10月)に日本政策投資銀行が主催したパーティで彼に会う機会がありました。そのパーティは故・宇沢弘文先生(東京大学 名誉教授)の追悼の会も兼ねており、教え子のひとりである浜田君も顔を出していたのです。
久しぶりに再会した私は、「あなたのマネタリーベースを軸にした考え方は間違っている」と20分ほど率直に意見を述べました。彼は「ふんふん」と聞いており、「物価が上がらないのは石油価格の下落のせい」 などと反論もしましたが、その口調からはそれまでの自信が失われ、どこか迷いが感じられたものです。その頃は、黒田東彦氏が日銀総裁に就任して1年半が経過し、黒田バズーカと呼ばれる金融緩和が進んでいた時期でした。民主党政権下に比べれば株価は上がっていたものの、 金融緩和によって生まれたマネーは投機に使われてドル買いが進み、円安となって実質賃金が下がり始めたことなどから、アベノミクスの効果に疑問符がつき始めていました。あれから2年の歳月がたち、方針転換のタイミングを探っていたときに出会ったのがンムズの論文なのでしょう。「赤字があっても財政を拡大すべき(時もある)」とのシムズ主張が「斬新なアイデア」であると浜田君が本当に思ったとすれば、私は本質的に彼の経済学の貧困さに驚かざるを得ません。財政政策の重要性は、私に限らず、ことあるごとに指摘されてきたからです。どう言い訳しようと、明らかに浜田君の敗北宣言そのものなのに、本 人にその自覚がないのは嘆かわしいことです。一本目の矢ばかり先行。
私は、安倍首相が小泉政権から定着してしまったデフレからの脱却を試みていることは評価しています。しかしながらアベノミクスがいま失敗に終わりそうなのは、スタート地点において日本経済の情勢分析を誤っていたことに原因があります。先ほど触れましたが、第二次安倍政権発足時点で日本は十分に金融緩和された状態でした。他の先進国と比較してもマネタリーベースのGDP比率は突出して高かったのです。
にもかかわらず浜田君らがさらなる金融緩和の必要性を主張したのは、リーマンショック直後のアメリカの例があったからでした。
連邦準備制度理事会(FRB)は緊急事態を乗り切るための対策として大胆な利下げを行い、マネタリーベースを急激に増やしました。08年1月に年3・0%だったFRBの政策金利は、同年12月には年0・25%まで下げられました。当時のERBバーナンキ議長はこの急激な緩和策を続けることで、未曾有の危機を乗り越えることにとりあえず成功しました。GDP比のマネタリーベースが日本より圧倒的に低かったアメリカでは、マネタリーベースを短期的に一気に増やすことで株や商品市場を活気づけたからです。
これを見て浜田君らは「金融緩和は有効だ」と主張したわけですが、前述した通り日本はすでに金融緩和を長年続けていました。アメリカと同じことが起きるはずがなかったのです。さらに、リーマンショック後のオバマ政権は金融政策だけを実行したわけではありません。金融緩和とセットで72兆円にのぼる大型の財政出動を決め、さらに日本の不良債権問題に学び、金融機関を潰さないために公的資金を注入しました。 ところが浜田君や岩田君は単純に金融緩和だけに目を奪われ、これさえやれば大丈夫だと安倍政権にお墨付きを与えました。本来3本の矢であるべきアベノミクスは、1本目の矢ばかりが先行してしまったために 失敗しているのです。 量的・質的緩和が日本では効果がなかったことは様々な数値を見て明らかです。最も深刻なのは実質国民所得の低下でしょう。アベノミクスがスタートした12年と15年を比べると、マイナス5%と悲惨な数字が出ています。
そして日銀のマイナス金利政策にいたっては、出口戦略がまったく見えず、私の知る審議委員の一人は頭を抱えています。もはや日銀のバラ ンスシートはドロ沼状態であり、マ イナス金利で金融システム全体が危機に瀕しています。
実は、浜田君らが参考にした本家のアメリカでも、金融緩和をいくらやっても、数年のスパンで見ると企業や家庭にお金が回らないことが明らかになってきました。アメリカでは、リーマンショックのあった08年のマネタリーベースを100とした場合、21年は3507まで増えているのに、マネーストックは99と08年よりわずかに減少しているのです。つまり中央銀行が民間の金融機関にお金をどんどん貸し出し、市場がお金でじゃぶじゃぶになっているのにもかかわらず、 企業や家庭にまったくお金が回っていないという、日本とまったく同じ状況になっているのです。このデータが明らかになった当時のバーナンキ議長は「金融緩和によって経済が成長することは理論的に検証されない」という微妙な言いまわしによって、金融政策に限界があることを認めています。デフレ解消のために一定以上の金融緩和をしても効果がないことはすでに世界の常識なのです。アベノミクスを支えた理論の信用性はすでに崩れ去っていると言っていいでしょう。
中谷巌氏を見習え
それでは、日本はいかなる経済政策を採用すべきなのでしょうか。 昨春、消費増税の参考意見聴取のため首相官邸に招かれたジョセフ・ スティグリッツとポール・クルーグマンというノーベル経済学賞受賞者は二人そろって、景気回復に有効な のは第二の矢?の財政政策だと語りました。
これまで第1の矢に比べ、第2に矢は散発的でパットせず、放たれていないも同然なのです。今年度は、リニア中央新幹線計画の前倒しのインフラ整備を盛り込んだ補正予算が組まれましたが、これも単年でボンと出して終わり。一瞬明るくなるだけですぐに終わってしまう線香花火のようなものです。 私も賛同する国土強靭化とは、災害などに備えて老朽化した道路や橋梁などのインフラを大規模に補修・ 改修・新設するものです。自民党は財務省に潰されることを恐れ、長期計画ではなく一年ごとの投資にとどまっています。しかし、これでは国民所得を投資額以上に増やす「乗数効果」が出ません。 公共投資の波及効果は継続してこそ表れるものなのに、実態は予算と 同じく単年度主義。単年度ごとの線香花火で終わる傾向は、財務省政権とも言われた小泉時代から続いており、GDPに占める財政支出の割合は先進国で一番小さくなりました。OECDいよると、99年を100とした場合、13年にはアメリカ197、イギリス210、財政均衡の権化であるドイツですら128であるにかかわらず、日本は105。
これこそが日本経済を苦しめたデフレの主因であり、地方を衰退に追い込んだ現況なのです。
建設国債などと組み合わせた長期計画を立て、ドンドンと打ちあがる花火大会のように財政出動を継続していけば、景気は確実に回復し、税収も増えるでしょう。実際にリーマンショック後の2年間で72兆円の経済復興予算を立てたアメリカでは、3年後に確定した乗数効果が2・3〜2・5だったと発表されています(米議会予算局)。つまり72兆円の財政出動で、180兆円の経済効果を生んでいるのです。 私は5年で100兆円の財政出動をすべきだと主張しており、14年2月の衆議院予算委員会でも公述人として同様の意見を述べました。
浜田君は本誌1月号で「私は金融政策については様々な意見を述べてきましたが、財政政策についての意見は『消費税増税反対』などに限られていました」と語っていますが、ある内閣官房参与からは「浜田さんが財政出動にことごとく反対して、議論が進まなくて困る」という話も聞いています。アベノミクスの理論的支柱と言われながら、財政政策が全く視野に入っていなかったというのは驚くべきことです。
デフレ解消は正しい目標設定であり、遅まきながら軌道修正をするしか道はありません。金融一本槍だった方法論を「財政主導・金融フォロー」に修正すべきでしょう。
昨年はプレグジツト(イギリスの EU離脱)やアメリカのトランプ氏の大統領選勝利と、格差を弦大させた新自由主義に「NO」を突きつける動きが続きました。トランプ大統領は10年で1兆ドルの公共投資をすると発言しており、財政政策で経済を活性化しようとしている。今後、世界の政策トレンドは、財政主導型に変わっていく可能性が大いにあります。
これは浜田君らの主張の敗北です。かって小泉政権で政策決定に大きな影響力を持った中谷巌氏は「構造改革路線は完全な失敗だった」と過ちを認めました。これは学者、知識人としてとても潔い態度です。
誤りが明らかになった以上、浜田君は内閣官房参与の職を辞して金憩緩和路線の誤りをハッキリさせるべきです。そうすればマネタリストの学者、知識人も白旗を上げるでしょう。浜田君も私ももう八十歳。同じ時代を生きてきた者として、これ以上 晩節を汚して欲しくはないのです。

【文藝春秋 2017年3月特別号「経済アナリスト 菊池英博

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(13)間違えたら腹を切れ 「経済学者」

経済学とは何なのか
安倍晋三政権の内閣参与を務める経済学者・浜田宏二氏の「宗旨替え」ショッ クは意外と大きく、憤りを隠せない関係者も多い。政権が生まれてからずっと金融緩和を推奨してきたのに、効果があまりないと分かると、こんどは財政出動だといい出したのは、あまりに節操がないというわけだ。
批判が向かっているのは浜田氏だけではない。たとえば、アベノミックスの一本の柱であった「インフレターゲット政策」が、経済学の到達点のように煽っていたある経済学史学者は、いつの間にか 「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでマスコミから姿を消している。
こうした状況を鑑みれば、「経済学者たちの責任感はどうなっているんだ」と 糾弾したくなるのも無理はない。私のような経済政策を論じてきた人間などは、 「経済学者よ腹を切れ!」と叫びたいくらいなのだ。
しかし、ちょっと踏みとどまってあれこれ考えてみれば、そもそも「腹を切る」というのはいったい何が目的なのだろうか。いくつか説があるが、有力な説によれば「私の腹のなかには邪悪なものはない」と天下あるいは主君に向かって示すのであるという。 だとすれば、経済学者の誰かが何かの拍子に切腹してくれる前に、その腹あら何が出てくるのか考えておいたはうがいい。エイリアンみたいな黒い化け物だったとき、腰を抜かさないためにも準備が必要なのである。
ついでながら、このさいもっとも根本的なことら始めることにしよう。そもそも経済学とはいったい何なのか。現実の社会にとって経済学は何ができるだろうか。まずは、当事者たちに聞いてみよう。
若者に人気のある経済学者ポール・クルーグマンは、ノーベル賞をもらった約半年後の講演で「現代経済学は、よくいって驚くべき無能をさらし、悪くいえば事実上の加害者でありつづけてきた」と述べて衝撃を与えた。自分を棚に上げてよくいうよと思うが、この経済学者の本音でもあるだろう。
また、英国のノーベル経済学賞受賞候補のジョーン・ロビンソンは「経済学を勉強する目的は、どうしたら経済学者にだまされないかを学ぶことにある」(注1)といっていた。なぜなら「経学説というものは、常にプロパガンダとして提示される」からだというのだ。 「無能」で「加害者」である経済学者たちがいい出す経済政策は、「だます」ための「プロパガンダ」なんだというわけである。この点、クルーグマンが尊敬措くあたわざる人物と考え、ロビンソンが教祖のように崇拝したあのI・M・ケインズこそ、実は、こうした現代経済学者の原形であるといってよい。
二〇〇八年のリーマン・ショック以降、 急速にケインズ経済学が再評価され、ケィンズ自身も聖人のように扱われ始めたが、それ以前の三十年間、ケインズは 「忘れられた歴史上の人物」だった。彼は大学の研究室棟の隅っこにある経済学史教室のなかで、「こういう人もいたよ ねえ」という感じで扱われるマイナーな存在にまで落ちていた。
そうした扱いも仕方なかった面がある。 経済学の中心地であるアメリカ合衆国で、 一九七〇年代に生じたスタグフレーショ ン(不景気とインフレの複合現象)を前にして、当時のケインズ経済学派のボス、ポール・サミュエルソンは何ら有効な手を打てなかった。 しかも、ケインズという人は、何あと 問題含みの言動が多かった。国際経済学者チャールズ・キンドルバーガーはある著作で「通貨と貿易に関するケインズの見解は時期によって少なくとも三つあっ た」といっているし、ケインズに批判された政治家のチャーチルは「五人の経済学者に意見を聞いた。大きく異なる六つつの説があった。そのうちの二つはケイン ズ氏のものだった」と皮肉った。
いまや経済学史に燦然と輝く『雇用、 利子および貨幣のー般理論』を、一九三六年に発表して、「熱病のように」自説を世界中の経済学者に感染させてからも、 ケインズは状況しだいで平然と別の経済政策を語った。
大戦中にアメリカを訪れたさい、戦時経済におけるインフレ対策を語って、『一般理論』信奉者の米高官に反論されると、「おや、君は僕以上にケインジアンなんだね」とからかった。若きフォン・ハイエクが「『一般理論』は誤解を招きますよ」というと、ケインズは「なあに、そのときには馬鹿を説得する本を書いて、こんな風に世論を」といって指をパテンと鳴らし「変えてやるさ」と嘯いた。
こんなケインズの『一般理論』にある欠陥を指摘して登場したミルトン・フリードマンは、一九六〇年代に「マネタリズム」を掲げ七〇年代からは新自由主義の祖としてアメリカ経済学界に君臨した。では、彼が提示した政策が成功したかというと、意外に思う人もいるかもしれないが、ほとんどが駄目だったのだ。 経済の成長に沿って通貨供給を調整するだけでいいというマネタリズムは、英国のサッチャー政権が採用したが、ほどなく現実的でないことが分かって放棄された。彼が「貿易不均衡が解消する」といって提示した変動相場制は、実際にはまったく貿易不均衡を解消しなかった。フリードマンの市場信仰は、ウォール街 に都合のよい金融界の教義としてもてはやされてきただけなのである。現象だけをみれば、新しい経済学説というものは、それが正しいから広がるというよりも、そのときどきの不幸を救済してくれそうなので流布するようなところがある。それでは経済学というのは新興宗教じゃないかと思った人がいるかもしれないが、その通りで、アメリカのロ バート・ネルソンという経済学者は『宗教としての経済学』という分厚い本を書いているほどだ。
ネルソンは米内務省のエコノミストだったが、経済政策を国民に説明しているうちに、経済学というより宗教による救済を説いているような気持ちになったという。そこで経済学史を振り返ってみれば、「わたしのいうことを聞けば、あなたがたは幸福になれる」という宗教的な論理構造が、マルクス経済学に留まらないことに気がついた。「信じよ、さらば救われん」はケインズ経済学でもフリー ドマン学説でも同じだったというわけである。ネルソンの説は一定の条件をつければ正しいと思う。
浜田宏一教授の悲劇
そもそも、最先端の経済学説を国民に完壁に理解させるということは不可能だ。いや、それどころか、最新の経済学説ほど分かりにくいものはないといっていい。
それでも国民に受け入れさせようとすれば、それはほとんどスネーク・オイルを売る(偽物をだまして売る)行為に限りなく近づく。
そうした意味で、アべノミクスの金融政策を支持した浜田氏について私は、むしろ弁護したいほどなのである。日本銀行の黒田東彦総裁は、科学哲学者カール・ポパーの翻訳者としても知られ、新学説に対しては慎重なはずなのだが、どういうわけか検証が不十分だったクルーグマンの「インフレターゲット政策」に「帰依」してしまった。
一九九八年に登場したクルーグマンによるこの説は、日本経済は金利をゼロにしても景気を刺激できなくなったから、日銀総裁が金融緩和をしながら、「これから日本をインフレにします」と宣言して、国民に「インフレ期待」を醸成するというものだった。 ただし、クルーグマンも馬鹿ではないので、こんなことをするのは、中央銀行が制御できるお金「マネタリーベース」 を増やしても、世の中をめぐるお金「マネーストック」が増えないことが分かっているからだと断っていた。しかも、インフレにすると宣言してそれを十五年も続ければデフレから脱却できるかもしれ ないと述べ、財政出動も放棄しないといぅ留保をつけていたのである。 したがって、安倍政権が浜田氏を金融政策についての内閣参与にしたという話を聞いたとき、私は首をひねった。なぜなら、浜田宏一教授は、クルーグマンのインフレターゲット説にはかなり否定的だったあらである。浜田教授は次のようにいっていたのだ。
「人々がインフレ期待を持ってしまうと、名目金利が上がり、実質金利も下げ止まって刺激効果が失われる。このような錯覚を利用した政策でクルーグマンの言うように人々を三年間もだまし続けることが可能だとは、私には全く思えない」 (『週刊東洋経済』一九九九年十一月十三日号)
このとき、浜田教授は正しかった。そしてまた、経済政策には「だまし続ける」という要素があることもちゃんと分かっていた。当然だろう、泣く子も黙る米経済学界において地位を確立した稀有な日本人だったのだから。したがって日銀副総裁となった岩田規久男氏が十五年ではなく二年でといい、当てにならないマネタリーベースを指標にすると論じてもじつと我慢をして「二年なら国民をだましてもよじと自分にいい聞かせたのだろう。
こんな人格者に対して安倍首相の待遇はひどいものだった。インフレターゲッ ト政策があんまり効かないと分かり、伊勢志摩サミットを機に財政出動に切り替えようとのプランが浮上したとき、アメ リカから有名経済学者のクルーグマンや ジヨセフ・スティグリッツを呼んで意見聴取している。浜田氏はもうお払い箱だと国民に宣言したようなものだった。 浜田氏は前出の論文を書いて以後、インフレターゲット政策について「ことによるとやむをえないのかな」と揺らいだこともあり、安倍内閣の参与となってからは「信者」のぶりをしてきた。しかし、それまでの輝ける経歴に恥じないためには、日銀の岩田副総裁や原田泰審議委員のように「トゥルー・ビリーパー」にはなれなかったのだろう。
ここにきて、トランプ大統領が大規模な財政出動をやるといい出した。インフレターゲット政策の片棒をかついできた経済学者や経済評論家は、空気の変化 察知して「日本には巨額の国有財産がある」と叫び出している。だから財政出動がいくらでもできるというわけだ。しか し、この議論も二十年前からのもので、埋蔵金といわれるものを一般会計だ入れるのは一回きり、土地・建物はせいぜい賃貸料くらいしみ期待できない。
こうしてみれば、私も多少の反省をしながら書いているのだが、経済学者に切腹させても意味がないのである。というのも、もうお分かりだろうが、日本の経済学者の腹のなかには、実は何にも入っていないからだ。入っているとしても、こずるい偽信者という奇形的な虫か学説の買弁商人という気持ち悪いミミズが這い出てくるだけなのである。

(注1)この言葉は佐伯啓思(社会思想家)の『反・幸福論(新潮45 2017年4月号第326頁)』にも引用されている。 「・・・・だから、経済学を勉強する必要があるのは経済学者に騙されないようにするため」である」というイギリスの代表的経済学者ジョーン・ロビンソンの皮肉な言い方にも当時は結構、真理は宿っていると思われだったのだ。・・・・」

新潮45 2017年4月号

東谷暁(ひがしたに さとし)
1953年山形県生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、編集者に。
ビジネス誌や論壇誌「発言者」の編集長を歴任し、97年よりフリーのジャーナリスト。

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