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  1. 誕生日:
    1935年4月13日。既に82歳。そろそろ来世への住み替えを促すかのような信号ごときを感ずる。
    だが、2006年12月29日、「まだまだ来世への住み替えは踏みとどまって下さいね!」という投書で気力復活。不思議の一語。
  2. 80歳は、老人先輩がたによると、身体の状況は一変するとのこと。これ以後は本格的な下り坂にかかり、その人の持つ天寿の支配を受ける世界に入る(竹中文良「ガンの時代」を生きる、文芸春秋、2004年6月号)そうである。ヤレヤレ。

    我生何処来(良寛)

    我が生、いずこより来る
    去って、いずこにか行く
    独座す、蓬竈の下
    兀々、静かに尋思す
    尋思すれども始めを知らず
    いずくんぞよくその終りを知らんや
    現在またしかり
    展転、総にこれ空
    空中しばらく我あり
    いわんや是と非とあらんや
    些子を容るるを知らず
    縁に従ってしばらく従容

    西行のことば

    生まれて生まれて
    生の始めに暗く、
    死に死に死んで
    死の終わりに瞑(くら)し

    ごく最近、惹かれたことば

    一遍上人の歌

    身を捨つる人はまことに捨つるかは
    捨てぬ人こそ捨つるなりけり

    おのずから相あいあふ時もわかれても
    ひとりはいつもひとりなりけり

    孤独独一(『一遍上人語録』)
    「生ぜしもひとりなり、死するも独
    ひとりなり。
    されば人と共に住するも独なり、そひはつべき人なき故なり」

    西行法師の歌

    世を捨つる人はまことに捨つるかは
    捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ

    NHK深夜放送の投書

    80%の気力、20%の体力で生きていきます!

    NHK TV ある百歳老人インタビューでの言葉

    問:人生とは?
    答:人生とは「」だよ。
    :人生とは「屁」と聞いてビックリ仰天!だが、「」は「屁」でなく、「人生とは“へ”のように、若い時は右上がり、歳経ると急に右下がり」の意と説明されて感動。

    気に入った俳句

    死んでたまるか年寄りの大嚔
    (おおくさめ)
       宮本豊香
    大嚔(おおくさめ)とはくしゃみのこと。

  3. 性 別(Sex):
    男(MALE)。
    入国カードのこのSex欄に3とか5など数字を書く若い女性がいるらしい。出来過ぎの冗談だろうが、何を勘違いしているのだろう。
  4. 使用パソコン:
    長い間使用したパソコン(MAC)も遂にダウン。今はWindows8.1機に。評判の悪い「Vista」はパスした。2014年10月から「Windows8.1機」を機能を指定できる通販で購入。OS色々変わって、気になるのは、Microsoftが膨大な既存OSの管理・保守能力を失うのではないかということだ。論より証拠。Windows8.1の出来の悪いこと。
  5. ソフト雑感:
    安定したソフトだけ使う主義。ダウンロードについては”Impossible(不可能=全くできない)”ではないが、”Infeasible(実行不可能=やればなんとかなるが、実際は不可能に近い)”な場合もあることを考えて貰いたいと常々思っている。しかし、ソフトの欠陥を正す、いわゆる「Update」はやらざるを得ない時代になった。
  6. 職 業:
    完全失業者のひとり。但し、官僚の作る失業統計には入らない。
  7. ひと口経歴:
    昔々、アセンブラー、COBOLなどを使ったプログラミングでは苦労。泣かされた。今のパソコンは別世界。凄いの一言。が、昔の苦労は薬になった。技術は「Conceptual Skill」が基本とつくづく実感する昨今である
  8. 好きな国と好きなもの:
    イタリア、スイス(但し、自然だけ)、ドイツ、スペイン、トルコ。温泉、小魚釣り(但し、船には乗らない)。
  9. 嫌いなもの
    自動車(自家用の毒ガス発生機。世の中を悪くした元凶)、砂利道、歩道橋 、火の消えないタバコの吸殻を捨てる人。
  10. 大嫌いなもの(1)
    誰も反対できないが「何の役にも立たない、いわゆる『正論もどき』。たとえば「真実に反する」「人の心を大切に」「美しい日本」等々。「事実は真実と違う」し「心とは何だろう」。
  11. 大嫌いなもの(
    そもそも何の考えもないのに、わたしこそが「ミンイ(民意)」を代表するなどという詐欺的政治家。このところの日本の総選挙結果をみると「民意は悪魔の声」のように感じる。投票率の低下も頷ける。

 12. 老人の夢
いつ頃からのことか思い出せないが、私がテレビを見ていると娘がやって来て、苦々しい顔でいうようになった。
「なんでこんな大音量にするの!」
普通の音量でも聞えないということはないのだが、何となくしっくりこない。じっくり、落ち着いた気持で聞こうとすると音量を大きくしたくなるのだった。
思えばあれが始まりだった。
そのうちテレビの若い女性のおしゃべりが聞き取りにくくなってきた。何をいっているのか身を乗り出して一心に集中しないとさっぱりわからない。小鳥の囀りか小川のせせらぎのように耳を通り過ぎて行く。
これは、若い女性のタレントがアナウンサーのように発声、滑舌の修練を積んでいないためだろう、と思った。NHKにはこういう囀り派はいない。舞台を踏んだ女優さんにもいないのは、それなりの修練を積んでいるからだろう。当節は玄人よりも素人がもてはやされ、努力や能力よりも器量とか、オッパイとか、バカなことを平気でいう度胸とかに重きが置かれるようになっている。 「そもそもテレビの使命は『伝達』にある。その基本を無視する制作者が怪しからん」などと一人演説を始めるが、勿論、誰も聞いていやしない。
そのうち、男性タレントや若手俳優でも台詞が聞き取れないことが増えてきた。「声が腹から出ていないからこういうことになる。男ならもっとハキハキしろ!」
と毒づいたりしているうちに、気がついた。これはどうやら私の耳に問題があるのではないか?
そう思うようになってお医者さんへ行くとあっさりいわれた。
「二十代の人の半分しか聞えていませんな」
「聞えない」ということでまず困るのは、他人には(見た目には)それがわからないということだ。目の悪いのは人の目にもすぐにわかる。足が不自由なのもわかる。鼻が詰るのもわかる。
耳の場合は何回も聞き返すことや、呼びかけても知らん顔をしていることでやっとわかってもらえる、という手間のかかるもので、そうかといって当人にしてみれば、あまりにくり返し「え? え?」と聞き返すのは面倒くさくもあるし、気がひける。かといって、「わたくし、耳が聞えませんので、よろしくご承知下さいますよう」
などと挨拶するのも仰々しい。
仕方なくわかったぶりをして領いたり、笑ったり(相手が笑い顔になるのを見て)神妙な顔を作ったりするのだが、相手が質問をしているのに、にこにこして領くだけで何もいわないですましている、といったことも多分あるだろうと反省するが、だからといってどうにもならないのである。
聞えなくなった耳はもう戻らない。それは病気ではなく「老化」だからだ。
階段を降りている時、突然右膝から力が抜けてへナへナとくずれ落ちたことがある。それも不注意ゆえではなく「老化」ですとお医者さんにいわれた。「気をつけて下さいよ」
といわれるが、何の予兆もなく勝手に力が抜けるのだから気のつけようがない。
背中のあちこちにむやみに痛いところが増えて、掻くにも手が届かず、それもベッドに入って身体があたたまってくると痒くなるものだから、二階の娘を起してまで掻いてもらうのも面倒で、「孫の手」を片手に枕につくというありさま。それも「老人性湿疹」だそうだ。老人性ということは根治しないということである。
つまり医師や薬に頼っても無駄だということだ。重ねて来た歳月は二度と戻らないように、歳月と共に傷んだ肉体ももはや戻りはしないのだ。
そう思いながら私はお医者さんの待合室に坐っている。一つの苦痛をなだめれば次が来る。一度なだめた苦痛が再びムックリ頭を擡げたりする。お医者さんはもはや、「老化ですな」
とはいわない。いわなくてももうわかってるだろ、という心境なのだろう。それを察してこっちから、(半分はヤケクツで)「老化ですね、だから治らないんですね」 というと、「アハハハ」とお医者さんは笑う。私も笑う。
「あなたはいつも気持が明るい人だからいいですな」
「アハハハ」
とまた私は笑う。この笑いに籠るいうにいえぬ悲哀を誰が知る。
今は死への序曲なのである。
若者は夢と未来に向って前進する。
老人の前進は死に向う。
同い年の友達との無駄話の中で、我々の夢は何だろうということになった。
「私の夢はね、ポックリ死ぬこと」
と友人はいった。
ポックリ死が夢?
なるほどね、といってから、けれど、と私はいった。「あんたは高血圧の薬とか血をサラサラにする薬とかコレステロールを下げる薬とか、いっぱい飲んでるけど、それとポックリ死とは矛盾するんじゃないの?」
すると憤然として彼女はいった。
「あんた、悪い癖よ。いつもそうやってわたしの夢を漬す…・・」
彼女にとってポックリ死はあくまで「夢」なのだった。そうか、そうだった。「夢」なのだ。彼女は十代の頃、アメリカの映画スター、クラーク・ゲーブルと熱い接吻を交すのが「夢」だった。ポックリ死はいうならば「クラーク・ゲーブルとのキス」なのだ。現実には掴めないことをわかっていての「夢」である。 「ごめん」と私は素直に謝った。私たちの「夢」はとうとうここまで来てしまったのだ、と思いつつ。

【「九十歳。なにがめでたい」佐藤 愛子著より】

13. 実際の長生きは苦しい
高齢者医療の現場
人は必ず死ぬ。それを否定する人はいないだろう。だが、いつ死ぬのがベストなのか、それを明言できる人は少ないのではないか。
できるだけ長生きしたいと思っている人は、たいてい元気なまま長生きできると思っている。高齢者医療の経験が長い私には、それが夢想であることは明らかだ。実際の長生きは苦しい。身体が弱り、機能が衰え、生き物としてどんどんダメになっていくのを、日々実感するのが長生きなのだから。
身体は衰えても精神が成熟するという人もいるかもしれない。だが、せいぜい七十代までで、それ以上になると、自制心も判断力も老化で衰え、心配性でこらえ性のない困った年寄りになることが多い。長生きの肉体的な苦痛は、精神の成熟など許す余裕もないほど厳しい。
私が在宅医療で診ていたある高齢女性は、息も絶え絶えにこう言った。「先生、わたしは若いころ、毎日、体操をしたら、長生きできると聞いて、一生懸命がんばったんですが、あれがいけなかったんでしょうか」
お年は九十二歳。肺気腫で毎回の呼吸が苦しい状況だった。もちろん寝たぎりで、食事もほとんど摂れず、それでも死ねない苦痛を診察のたびに訴えた。こういう患者に接すると、若いうちから健康法に熱心に取り組むのも考えものだと痛感する。別の九十代の女性は、診察のとき、 「お加減いながですか」と聞くだけで、滂沱の涙を流した。寝たぎりで、孤独で、何の楽しみもなく、自分の身のまわりのこともできず、あちこち痛くて、介護の 世話ばかりかけている己の窮状が、一気に脳裏に浮かぶからだろう。 不幸なことに、彼女は頭がしっかりし ていた。認知症にでもなっていれば、つ らい現実を忘れることもできるが、なまじ脳がクリアなため、惨めで情けない状況をつぶさ意識せざるを得なかったのだ。脊髄少腦変性症という難病を患っていた八十歳の男性は、小脳の機能不全のため、手足が思うように動かせなかった。 食事をしようにも、先割れスプーンでご飯をすくおうとすると、手が左右に揺れてなかなかすくえない。すくったあとも、容易に口に運べない。これが毎度の食事で繰り返される。まるで、食べ物を口に入れようとすると、火に変わってしまう餓鬼道の苦しみを見ているようだった。その男性は、言語障害で聞き取りにくい言葉を駆使して私に訴えた。
「こんなん、蛇の生殺しや。早くなんとかしてぅれ」(“なんとか”“死”を言味しているのは明らかだろう)
こういうイヤな話は、高齢者医療の現場にいれば枚挙にいとまがない。
長寿がめでたかったのは過去の話
むろん、元気で長生きな人もいる。それは宝くじを買えば一億円当たる人がいるのと同じで、たいていの人は宝くじがはずれるのと同様、長生きすれば苦しむ。なのに、宝くじを買えば、みんな当たるように思わされているのが現代である。そりゃ長生きをして苦しんでいる人の話より、百歳を越えてなお現役の人や、九十代になっても本格的な登山をする人の話をするほうが気持ちがいい。「人生九十年時代」とか、「百歳いきいき健康法」とか、「寿命は本来百二十歳」などと叫んでいれば、楽しいに決まっている。しかし、そんなふうに浮かれていていいのか。私はいつもパスカル言葉を思い出す。
−われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前においたいた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである。
長寿がめでたかったのは、医藻が十分に発達していなかった時代の話である。
病気や怪我で早く死ぬ人が多かったから、天寿を全うした人が長寿と祝がれた。
今は医療が進みすぎて、死ぬのがむずかしい時代になっている。せっかく自然に死にかけても、病院に運ばれると簡単には死なせてくれない。検査や点滴で何度も針を刺され、口や鼻や尿道に管を突っ込まれ、あれこれ器械を取り付けられて、安らかな旅立ちを妨げられる。無事に生還するのならまだしも、たいていは無駄なあがきに終わる。 死ぬ間際にかぎらず、今の世間は長生きという絶壁に向けて、猫も杓子も 闇雲に突っ走っているように、私には思える。あたかも濁流に向かうレミングの群れのごとく。
PPK(ピンピンコロリ)という言葉をご存じだろうか。ピンピンと元気に老いて、最後は寝つかずコロリと死のうというスローガンだ。私は小説の参考にするために、 関連書籍を何冊か読んだが、いずれも書いてあるのは「ピンピン」に関することばかり。知りたいのはどうやったら「コロリ」と死ねるかだったが、それに触れている本はなかった。まるで、元気に老いれば、自然にコロリと死ねるかのような扱いだった。そううまくいくのだろうか。
よく考えれば、ピンピンと元気に老いるには、摂生して健康に注意しなけれならない。そういう生き方をした人は簡単には死ねない。コロリと死ぬのは不摂生をした人だ。ピンピンと元気に老いた人は、ダラダラと弱って死ぬ。寝たきり、下の世話、床ずれ、関節拘縮、誤嚥、腰痛、不眠、便秘、うつ病、呼吸困難、全身倦怠など、苦痛に満ちた老衰のフルコースを味わうことになりかねない。 世間には、老衰で眠るように死にたいという人もいるが、老衰はそんな生やさしいものではない。私は長年、在宅医療で多くの老衰の患者を診たが、うらやましいと思ったことは一度もない。九十歳を越えると、たしかに朝起きたら死んでいたというようなこともあるが、そこに至るまでの苦しさは、それこそ真綿で首を締められるように、じわじわと容赦なく日常を覆い尽くす。 こういう長生きのリアルを知らない人 が、うかうかと長寿に憧れ、「命を見捨てるな」とか、「最後まで希望を持って」などと、メルヘンのような世界にからめ捕られる。
その原因はふたつ。きれい事に終始するメディアと、欲望につけこんで金儲けを企む健康関連業界である。
つけこまれる長生き欲
日本は先の大戦で命を粗末にしすぎたので、その反動として、今は命を大事に しすぎている。もちろん命は大事だが、何事も過ぎたるは及ばざるが如し。「人の命は地球より重い」とか、「死なせたほうがいい命などあり得ない」など、キラキラ文言がまかり通って、反論を許さない。死を肯定するようを言説は、戦前のアカ思想のように危険視され、圧殺される。メディアで報じられるのは、「九十二歳で心臓弁膜症の手術成功」とか、「いきいき百歳、社会の主役」など、明るい偽りの希望に澤ちた記事がほとんど。ただでさえイヤなことから目を背けたい世間が、そんな都合のいい話ばあり聞かされれば、〃リアル長生き〃の恐怖など忘れて、レミングの群と化すのは当然だろう。
そこへ持ってきて、長生き欲をカネに変えようとする勢力が跋扈して、いつまでも元気に若々しくとばかり、サプリメントや健康食品を宣伝しまくる。テレビも視聴率を稼ぐため、健康情報アンチエイジング、病気の新治療など、視聴者が見ずにはいられないような番組をこれでもかと繰り出す。
医療者も、自分たちの実績を誇示するため、がんは治る時代になったとか、認知症でも自分らしい生活をなどと、調子のいい話を吹きまくり、製薬業界も売り上げを伸ばすため、医者と共謀して、早めの服薬、より安心な投薬をと、のまなくてもいい薬を山ほど患者に押しつける。
当たり前のことだが、若返りの薬とか、魔法の秘薬でもないかぎり、自然な老化を止めることはできない。人間の力はそれほど偉大ではない。その事実を隠して、あたかも病気も老化も克服できるあのように見せかけているのが、今の医療界と健康関連業界である。 甘い言葉で誘惑し、ときには不安を煽り立て、偽りの希望と安心を蔓延させて、無用な検査や健診を受けさせ、健康な人間を病人に仕立て上げ、効果も定かでない薬や健康商品を売りまくる。すべては長生き欲につけ込んだ厚顔な商法だ。
では、どうすればいいのか
別に早く死んだ方がいいとは言わない。要は自然な寿命を受け入れることである。寿命を受け入れるということは、死を受け入れることで、その境地に達すると、多くの煩いが消えて心が安らかになる。 死を拒絶していると、あれをしてはいけない、これをしなければならないと、いろいろ辛抱と義務を押しつけられ、先のことばあり気になって、今を楽しむ暇がない。
死を受け入れるのはむずかしいと思うかもしれないが、そんなことはない。いつも死のことを考えていれば慣れるし、あきらめもつく(ヤケクソのあきらめではなく、明らかに観るという意味のあきらめだ。
可能なら、できるだけ多くの死を見るのもいいだろう。私は医師として多くの患者を看取ったが、どんなに死を恐れ、拒絶し、悲しんでいる人でも、みんな死に顔は無表情だった。つまりは悪くないということ。自分が失われることを恐れる人もいるかもしれないが、毎晩、自覚る保証もなく、眠っているのだから、それと同じと思えばいい。 今はがんは老化現象のひとつと目されている(細胞のがん化はDNAのコピーミスが原因で、長く生きればその確率も上がるため)。心筋梗塞や脳血管障害なども、長く身体を使っていれば起こって当然の変化で、内臓の機能低下も当たり前のことだ。すなわち、自然な寿命”。それを病院などに行くから、無理やり死を遠ざけられ、不自然な長生きをさせられて、想定外の苦しみを味わうことになる。
無益な延命治療を拒否する人も多いが、 そのもっとも確実な方法は、病院に行かないことだ。病院にさえ行かなければ、延命治療はもちろん、長々待たされることもなく、つらい検査を受けさせられることもなく、高い医療費を取られることもない。いいことずくめだ。
とは言え、病気になったり、つらい症状があれば、病院でなんとかしてほしいと思うのも人情だろう。医療で治るものは治してもらえばいい。しみし、だらだら行くのはよくない。一カ月か二カ月通ってよくならないなら、 医寮は無力とあきらめてほうがいい。
心底、寿命を受け入れる覚悟ができれば、自ずと病院になど近寄らなくなる。
そうすれば、時間も心も肉体もゆったりして、今、生きていることのありがたみがわかるだろう。

【「新潮45」2107年7月号 久坂部羊】

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